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人生の哲学 の商品レビュー

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2012/04/29
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 哲学のための哲学を捨て、人生(幸福)のための哲学を考える。哲学は言葉の遊びであり、哲学が言葉の遊びとして影響と一部の人間の食い扶持を与えてきた。しかし、本当に必要になる「人はどう生きるか」「幸福とは何か」「幸福を獲得するにはどうすればいいか」については哲学では徹底的に無視されてきたといってよい。  幸福術は処世術の、宗教の1分野にされてきた。哲学についての高邁な理論を展開する哲学者が、貧困に会い、国家の庇護(大学)でのみ生存が可能で、自分さえも幸福にすることができないのは滑稽である。  人類の目標は個人的にも社会的にも幸福の追求を一端とする。幸福とは何か。幸福を得るにはどうしたらいいか。この問いを世俗的な問題としてでなく、一つの哲学的テーゼとして考える歴史がもっとあってもいいはずだ。 著者は幸福の形をいろいろな場面で考えながらも、究極的には「いい仕事をすること」を原点に置く。同感である。人は99%自分の仕事をやりたいと思っていないし、仕事に全身全霊を傾けているとは言えない。ひたすらサボり、いかにサボるかが仕事の神髄であると考える。サボる技術の究極として、「いかに熱心に仕事をするか」「自分に暗示をかけて、仕事をしている感を得て」「誰もが見ても熱心に仕事をしていると錯覚する仕事のすがた」を作り上げる。  その仕事に真剣はない。ほとんどの人が身体でなく時間と神経を売る売春婦である。人は不幸にして、今自分のしていることが幸福なことなんだと実感できない。学生時代は受験という制約にレンズを曇らされて、学問それ自体が楽しみであることを知らずに、苦痛として捉える。仕事をしているときは生活という制約でレンズを曇らされて仕事自体が幸福なのだと知らずに、苦痛として捉える。制約が解けたとき、受験勉強が終わり、定年退職してはじめて、自分が幸福の渦中にいたことをしる。そこから幸福を追求するのもいい。だが、できればもっと早くに、長い時間をかけて幸福に浸ることができたらいい。そのために幸福を考える哲学があって、発展してもいいはずである。

Posted byブクログ