引きこもり狩り の商品レビュー
怒りに震えながら読んだ。引きこもり本人の意思を無視した支援が行われて良いはずがない。先日戸塚宏氏の対談動画を見たが、善意の暴走とはこういったものかと納得がいった。自らを善と疑わず、そこに従わなければ暴力で対応する。教育を受ける権利には教育者に従う義務がある等…戦前の教育観を持つ人...
怒りに震えながら読んだ。引きこもり本人の意思を無視した支援が行われて良いはずがない。先日戸塚宏氏の対談動画を見たが、善意の暴走とはこういったものかと納得がいった。自らを善と疑わず、そこに従わなければ暴力で対応する。教育を受ける権利には教育者に従う義務がある等…戦前の教育観を持つ人間が、未だに存在している。 ただ、本書の主題は事件を単なる無知な支援者の暴走であると批判することではない。そもそも引きこもりを「引き出す」という支援観そのものが再検証されるべきではないか。そう問うている。 支援や治療には流行り廃りがある。呪術で治そうとした時代、薬で治そうとした時代、語り(ダイアローグ)で治す時代…。 しかし、引きこもりという現象はそもそも治療の対象なのか。著者らは斎藤環を批判しながら、引きこもり支援のパラダイムシフトを提案している(最近斎藤環は『社会的ひきこもり』の改訂版を出した。まだ未読だが批判を受けて引きこもり=治療対象という単純な図式は修正したようだ)。 私はどちらの意見も賛成しかねる。たしかに引きこもり=治療の対象とすることは問題だ。引きこもるという行為そのものが、本人の人生に良い影響を与えることだって十分ありうる。 しかしながら、引きこもりの中には一定数、精神的な治療が必要な者がいるのも確かだ。彼らが適切な治療を受けられず、困難を抱えながら引きこもり続ける。そんな悲しいことは起こってはならない。 どちらにせよ、引きこもりという現象を切り口としながらも、根気強く引きこもる本人を理解しようとしなければならない。そして、必要な支援を探っていくべきだ。当事者置き去りの支援ではなく、まずは当事者の話をしっかり聴くことから始めなければならない。 ともあれ、本書の問題提起により引きこもり支援は変わってきたように思う。今の時代、引き出し屋のような支援は少数派だし、批判されやすい。ただここに安住してはならない。支援がシステムとして動き出し、そこに信仰的になってしまうことは、まさに本書が危惧していることに他ならない。常に支援について点検し、誰のための、何のための支援なのかを考え続けなければならない。
Posted by
- 1