辺界の輝き の商品レビュー
沖浦 先住民系や賎民が、宗教が成立する以前からのアミニズム的神事を執り行なえる呪能の持ち主である―そのようにみなされた時代があったのです。シャーマンが神々と交流するときには、オドル・マウ・ウタウ・トナエルなどを必ず伴いますが、そのような巫術といいますか、呪術的所作が芸能の始源にあ...
沖浦 先住民系や賎民が、宗教が成立する以前からのアミニズム的神事を執り行なえる呪能の持ち主である―そのようにみなされた時代があったのです。シャーマンが神々と交流するときには、オドル・マウ・ウタウ・トナエルなどを必ず伴いますが、そのような巫術といいますか、呪術的所作が芸能の始源にあった。p96 沖浦 「遊」という字そのものがね、ものすごく重要なんです。人の生きる道を説いて諸国を歩く宗教者も「遊行者(ゆぎょうしゃ)」でしょう。遊び女も「遊」でしょう。白川静の『字通』で見ますと、「遊」の原義は、氏族の神霊の宿る旗をおしたてて外を歩くことなんです。そして、そこから、「遊」は、移動すること、逍遥(しょうよう)して楽しむこと、自由な境涯をいうとある。p110 沖浦 家船(えぶね)漁民は戸籍ではどう表記されていたかというと、「間人(まおと)」とされている記録があります。これは良民(律令制における農民)と賎民の間という意味なんです。p159 沖浦 「わび」「さび」の本当の境地は、世俗の名誉や利害から離れて、草庵や旅に生きながら、既成の秩序から解放されて自由の境地にひたる。その「わび」の思想を説いた千利休にしても、もともとは魚問屋の納屋衆(倉庫業)だったと史料にありますけど、革屋で財を成したという説もあります。納屋衆から選ばれて堺の市政をとった会合衆は武器と皮革で儲けていた豪商でした。皮革は、鉄砲とともに戦国大名が求めた重要な軍需品でした。武野紹鴎から千利休の線は、いまおっしゃったように底辺の民衆文化との接点があるんです。 五木 茶道で重要な茶筅は、竹を使いますね。茶筅づくりの仕事は、竹細工をやる漂流民の仕事だった。常民の仕事ではないでしょう。「侘数寄の茶」の根にある「わび」「さび」の精神は、河原の苫屋(とまや 苫で屋根を葺(ふ)いた粗末な家)にいて一服の茶を点てる、そういう境地ではないか。まさに川の流れを聞きながら、俗塵から離れて大自然の野に伏す―まあ言えば、「瀬降り」(せぶり 竹と布で作った簡単なテント)の感覚なんですよ。 沖浦 ほんとに茶室の草庵化がそうですね。「寂び」にしても、俗悪華美な世俗の嗜好を排して、あるがままの自然の中に物の本質を究めることでしょう。利休は舶来の茶碗に代わって長次郎作の新焼茶碗、象牙ではなくて清楚な竹の茶筅を愛用したり、桂川の猟師から魚籠を買ってきて花生けにした。 五木 殺生に使った魚籠を花器にするなど、貴族の文化ではとても考えられない発想ですね。信長や秀吉などの政治家と結びついて、「わび」「さび」の茶道が発展したとされてますが、そうじゃない。 沖浦 秀吉の茶室は黄金張りの金ピカですからね。美意識の対立がしだいに深まっていった。秀吉と千利休との対立は、大徳寺山門事件、利休七哲(りきゅうしちてつ)には高山右近らキリシタンが多かったこと、朝鮮出兵に反対したことなど諸説あって、ぼくも複合要因説です。p174 五木 テレビ局が、聖域として手を出せないのは、やはり芸能の世界なんです。芸能というのは傀儡子(くぐつ)の世界なんですよ。p200 wiki 傀儡子(くぐつ、傀儡とも言う)とは、9世紀頃から各資料に現れだした、諸国を旅し、芸能によって生計を営んでいた集団の事である。 呪術等を用い、色々な芸能を行うことが出来、また特に人形を操っていたとされる。傀儡師とも書き、女性の場合は傀儡女(くぐつめ)ともいう。 その生活体系から、後の時代の、歩巫女、歌舞伎女、市子、イタコ等との関連性が指摘されている。
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