プラハ日記 の商品レビュー
チェコに行く機会があり、たまたま手に取った本でしたが、いく前に読めたことをありがたいと思う反面、あまりにも悲しくて胸が締め付けられてなりませんでした。 文章は表題にあるように、10代の少年であるペトル氏の日記であり、誰かに発表する意図はないものです。 だからこそ、そこに書いている...
チェコに行く機会があり、たまたま手に取った本でしたが、いく前に読めたことをありがたいと思う反面、あまりにも悲しくて胸が締め付けられてなりませんでした。 文章は表題にあるように、10代の少年であるペトル氏の日記であり、誰かに発表する意図はないものです。 だからこそ、そこに書いているいろいろな意味や意図を考えてしまい、どれだけ真摯に真面目に日常を生きていたか、それをある日を境に奪われ続けたかが、伝わってきました。 特にテレジンに行ってからの2年、あらゆる理不尽に理知的に抵抗していたのがまだ10代半ばの少年だったことが、ただただ悔しくて悲しかったです。 この本を読むことで、宗教や人種による差別、虐待が二度と起こらないことを、強く願います。
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ペトル君のことは、あまのさくや氏の『チェコに学ぶ「作る」の魔力』で知った。 アウシュヴィッツへの中継地点にあったチェコのテレジーン収容所では、「VEDEM」という文芸雑誌が秘密裏に発行されていた。その中心人物はペトル君をはじめとした13−15歳のユダヤ人少年達。 「文化の源...
ペトル君のことは、あまのさくや氏の『チェコに学ぶ「作る」の魔力』で知った。 アウシュヴィッツへの中継地点にあったチェコのテレジーン収容所では、「VEDEM」という文芸雑誌が秘密裏に発行されていた。その中心人物はペトル君をはじめとした13−15歳のユダヤ人少年達。 「文化の源が奪われたならば、新たに創りあげよう。喜びの根源から引き離されたならば、新たな喜びにあふれた人生を築きあげようではないか!」 監視の目をくぐって彼らは詩や物語等を「VEDEM」誌に寄稿、表現の自由を最後まで諦めなかった。 1944年9月アウシュヴィッツに移されたペトル君は、同地で命を落とす。享年16歳。 …わずか14歳で、生きる証を表現しようとしたペトル君の話を『「作る」の魔力』きりにしておくわけにはいかないだろう。 「今の時代にまったく当たり前の出来事は、普通の時代だったら大問題になるはずだ」 本書で取り上げられている彼の日記は、1941年9月〜翌1942年夏とテレジーンに移送される直前まで綴られている。 チェコ系ユダヤ人の家庭に生まれた彼は、大好きな故郷プラハでの日々を日記に書き記した。当時新品のノートを入手するのは困難だったこともあり、ノートは古紙を使って作成。 しかし彼自身「創作と名のつくものは何でも好きだった」ので、この辺は『「作る」の魔力』にあったチェコのモノづくり精神にも通じているんじゃないかな。モノが溢れる時代になっても、彼は自作にこだわり続けたと思う。 書き方としては、日々の出来事がまさに淡々と記されているほか、国内・日本の太平洋戦争開戦といった国際的な時事ニュースもメモられていた。(ほぼ同時代に書かれた)『アンネの日記』のように、書き手自身の感情をぶつけるような描写は全く見られない。(大人になろうとしていたのかな?) 移送の日が近づくにつれ文章に乱れが表れてくると、本書の著者でありペトル君の妹のプレスブルゲル氏は述べている。(彼女もまたテレジーンに移送されたが無事生還した) そのページを写した画像はなかったが言葉数が激減、「記録なし」の日が激増しているのが見てとれる… 「創造力の種子は泥にまみれたって死なないのだ」 だが移送後の彼は恐怖に打ち勝ち、「VEDEM」を通して創作意欲に燃えた。 本書では日記のほか彼の作品も掲載されているが、どれも眺めただけで心に飛び込んでくる。鉛筆画一つとっても、巧妙に描き分けられた明暗に感心するだけにとどまらず、彼がどんな気持ちでその風景を見つめていたのかが直に伝わってくるのだ。 とは言うものの、結局本当の気持ちは作り手にしか分からない。物を多く語らない彼だから余計に。 でも作品を仕上げた後の彼はきっと、「もっと創りたい、創らねば!」という情熱に駆られていた。それだけは、そうとしか思えない。
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リトムニェジツェ(Litoměřice)に逗留したことには訳がある。それは、ここから5キロほど離れた街テレジーン(Terezín)を訪問するためであった。テレジーン(ドイツ語名 テレージエンシュタット)は名前の通りマリア・テレジアの名にちなんで命名され、ハプスブルク家が構築した要...
リトムニェジツェ(Litoměřice)に逗留したことには訳がある。それは、ここから5キロほど離れた街テレジーン(Terezín)を訪問するためであった。テレジーン(ドイツ語名 テレージエンシュタット)は名前の通りマリア・テレジアの名にちなんで命名され、ハプスブルク家が構築した要塞都市。かつては立派な街だったようだが、今は史跡関連施設以外は寂れていて宿泊施設もこころもとない。そこで、宿泊は隣接するリトムニェジツェにして、そこから通うことにした。 テレジーンは第二次大戦時にナチスドイツによってユダヤ人ゲットーや収容所として使われ、多くの方がこの地で亡くなった。その中には多数のユダヤ人の子供がおり、これに関する施設や2冊の本の紹介にも重点をおいた。 テレジーンについて詳しい日本語サイトや書籍は少ないので、丁寧にまとめてみた次第である。 ● VEDEM と プラハ日記 アウシュヴィッツに消えたペトル少年の記録 こちらは、プラハという馴染みのある都市の名前からなんの気なしに手に取り購入した。テレジーンとここまで深い少年だったとは知らなかった。日記をつけたギンツ・ペトルは『VEDEM』の編集長だった少年。この日記はプラハからテレジーンに連れて行かれる直前までつけられていた日記で、これを読むと当時のプラハのユダヤ人社会がナチスドイツの政策でどんどん歪んでいくことがわかる。 詳細はコチラ↓ テレジーン テレジン(Terezín) 観光ガイド / 『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』と『プラハ日記 アウシュヴィッツに消えたペトル少年の記録』を読む https://jtaniguchi.com/%e3%83%86%e3%83%ac%e3%82%b8%e3%83%bc%e3%83%b3-%e3%83%86%e3%83%ac%e3%82%b8%e3%83%b3-terezin-vedem/
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