エロス論集 の商品レビュー
幼児の他者性が際立ち、ますます哀切でグロテスクな存在として感じられ、それがいまの自身に繋がるのだということを考えてこわくなる。
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※このレビューにはネタバレを含みます
この本の存在は出版当時から知っていたが他書も含めフロイトの原典を読まずじまいで今回初フロイト。有名な『性理論三篇』をはじめ、「性(エロス)」を表立ってテーマとして論じた小論をよく集めている。テーマがテーマなのでそういう話も出てくるが当然ながらいたって真面目に論述は進む。 これも1回読み通しただけではなかなか全体としてつかめた気がしない。ただ、(少なくともフロイトの)精神分析が記号論的読解なのだと実感。フロイトの読解の基本前提では性的なものを重視するあたりが独特ではあるだろうけれど。 編訳者による巻末解説は単なる解説というより一つの可能な読みであるとのことでフロイトを引き継いだ一人であるラカンをも参照しているようだが、フロイト自身の錯綜気味の論述をよく整理しているように思う。 目に留まった記述を場当たり的・要約的にいくつか。おしゃぶりは栄養摂取=自己保存行動としての授乳の際の快感を原型とし(正確に言うとフロイトの用語では、栄養摂取欲求=自己保存機能に「依託して発生した」とする)、さしあたり他の誰かを求めるのではなく当人の身体のみで完結する幼児の原初的な性的表現である(『性理論三篇』第二篇第二節)。金銭への関心と排便・糞便への関心は(対象の意味が正反対であるために、古代的な思考法として)関連している(「性格と肛門愛」「欲動転換、特に肛門愛の欲動転換について」)、などなど…。 フロイトが性ということ(自身は「拡張された性の概念」とし、それはプラトンの言うエロスと似たようなものだと強調する)を重視したのは、彼自身の個人的感性もあるかもしれないし近代の始まりが一巡したところといった時代の問題などもあるかもしれないが、内在的にはそれが主体と倫理との緊張・相剋を不可避的に、そして典型的あるいは極限的にはらむからではないかと気づいた。 ペニスの象徴性についてしきりに言及していて、そりゃ男根中心主義と批判もあるだろうなとは思ったが、それで象徴している本質的意味はたぶん個人としての主体性ではないかと思いあたる。そして少なくとも欧米では(日本でも同じ?)、ひととしての主体性は男性が優先的に占有するものと長らく社会的に考えられ、それを性的に象徴したのはたしかにペニスであったろうし、フロイトのクライアントたち(察するに当時の裕福な中上流階級の、ある程度知的な人々)の(無)意識では実際にペニスのイメージが優先的象徴としてあったのではないか。 心の発達の過程でエディプス・コンプレックスのあり方が男女で非対称的に異なると論じ、その注釈で「この論述を女性蔑視だと非難するのは男女同権論の結論ありきだ」(この箇所で明記していないが察するに、臨床経験に基づけばこうなるのであってその認識を論争のためにゆがめることはできない、ということか)といった旨で釘を刺していて(「女性の性愛について」原注(2)、339頁)、性について語ることの難しさをあらためて考えさせられた。 なお現在(2017年10月)版元品切れで私は今回公立図書館で借りて読んだ。姉妹編にあたる『自我論集』は現在流通しているようで、本書復刊希望。
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どうしてわたしがわかりもしないラカンさんやフロイトさんの本を読もうとするのかがわかった。わたしは病んでいるのだ。この病から解放されたいのである。しかし、おそらくそれは不可能なことだろう。病の根はわたしの無意識にあり、わたしの無意識はわたしが意識的に取り扱うことなどできないからであ...
どうしてわたしがわかりもしないラカンさんやフロイトさんの本を読もうとするのかがわかった。わたしは病んでいるのだ。この病から解放されたいのである。しかし、おそらくそれは不可能なことだろう。病の根はわたしの無意識にあり、わたしの無意識はわたしが意識的に取り扱うことなどできないからである。 それでも、もうしばらくはフロイトさんとラカンさんを読んでみようと思っている。なにかこの先にあるかも知れない。別になくったっていい。特にしなければならないこともない。時間が尽きればそれはそれで解放される。 日常の辛苦を味わうことが享楽でもあるという実感が持てたのはよかったかもしれない。 Mahalo
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フロイトの「エロス」の定義は一般の人がイメージするものとはだいぶ異なっています。卒論を書くときにだいぶ苦しめられた1冊。
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