東京大空襲60年 母の記録 の商品レビュー
(2008. 03.22読了) 「東京大空襲」早乙女勝元著、岩波新書、を読んだ後、amazonで、類書を探して見つけた本です。森川寿美子さんは、「東京大空襲」にも登場しますが、3月10日未明の東京大空襲で、3人の子供をなくしています。 当時森川さんは、4歳の男の子、8ヶ月の双子の...
(2008. 03.22読了) 「東京大空襲」早乙女勝元著、岩波新書、を読んだ後、amazonで、類書を探して見つけた本です。森川寿美子さんは、「東京大空襲」にも登場しますが、3月10日未明の東京大空襲で、3人の子供をなくしています。 当時森川さんは、4歳の男の子、8ヶ月の双子の女の子と暮らしていた。夫は出征していて不在。空襲警報のサイレンで飛び起き、窓を開けてみると、風が強く、火事で空が赤く染まってきたので、避難をすることにした。いつもは、8ヶ月の子供二人を背中に負ぶっていたのですが、この夜は、うまくいかないので、一人はおぶい一人は抱いて、4歳の子の手を引いて外に出た。近所の人はすでにみんな逃げたようだ。どうしようかと思っているところに、隣の林さんが探しに来てくれて一緒に横川公園に逃げた。 横川公園で、林さんに手伝ってもらって、8ヶ月の子供二人を背中に負ぶった。火の勢いは増し、公園に持ち込んだ荷物にも火が燃え移り、火の粉を防げる場所がなくなってきました。公園の片隅にプールがあり、火が迫ってきた当初は、プールの水を鉄兜でくみ出して火を消していたけれど、だいぶ少なくなりました。このままではいずれ火に追われることになる、今のうちにプールに入ろうと決心し、飛び込みました。 プール横の国民学校にも火は燃え移り、火と煙に苦しめられ、朝を迎えたころに、火の勢いも弱まりました。 プールから這い出して、背中の子供を下ろしてみたら、すでに死亡していた。4歳の子供もかなり弱っていました。救護所で医者を探したが見つからず、結局死なせてしまいました。 (この部分の手記は、空襲の一年(1946年3月)後に書かれたものです。) 3月10日の空襲のあと、一時渋谷の実家に身を寄せていたが、4月から、浅草のほうの工場に住み込みで働いていた。 5月25日に山の手空襲があり、実家にいた父母が避難の途中直撃弾を受けて死亡しているのが見つかった。 (この部分の手記は、1945年8月に書かれたものです。) このほか戦争前後のことも書いてあります。当時からノートに記録を残していたようです。 解説は、早乙女勝元さんが書いています。 著者 森川 寿美子 1921年 東京・渋谷穏田に生まれる 1945年3月10日 空襲で三児を失う 1945年5月25日 空襲で渋谷穏田の両親を失う (2008年3月22日・記)
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