20世紀はどのようにデザインされたか の商品レビュー
バウハウスとナチ(国家社会主義)。広告とベンヤミン。価値、人工的希少性、欲望。モダニズムとともに崩壊するユニヴァーサルなモダンデザイン。物語の喪失と泡沫的経済のニヒリズム。近代資本主義から排除されるマージナルな存在と対抗文化。近代の都市計画は貧困問題から始まり、20世紀はそれを解...
バウハウスとナチ(国家社会主義)。広告とベンヤミン。価値、人工的希少性、欲望。モダニズムとともに崩壊するユニヴァーサルなモダンデザイン。物語の喪失と泡沫的経済のニヒリズム。近代資本主義から排除されるマージナルな存在と対抗文化。近代の都市計画は貧困問題から始まり、20世紀はそれを解決しなかった。社会は人工的に変革・構築しうるという近代のデザイン思考そのものが間違いだったのか?
Posted by
「社会」そのものが約束事によって成立しているのならば、約束事の不成立は社会の不成立を意味する。はるか昔のデザインは自分の階級を示したり性別を示したりするための禁制のことだった。そしてデザインとは制度を可視化する機能をもつがゆえに重要だった。 さて、何でもOKになったはずの近代以...
「社会」そのものが約束事によって成立しているのならば、約束事の不成立は社会の不成立を意味する。はるか昔のデザインは自分の階級を示したり性別を示したりするための禁制のことだった。そしてデザインとは制度を可視化する機能をもつがゆえに重要だった。 さて、何でもOKになったはずの近代以降、スーツという縛りはビジネスの中で今もなお残ってるけど、マニッシュなファッションの女の子やダボダボの服を着る男の子とかがいる。そして、ファッションに限らず、お金さえ払えば上流社会の調度品なんてモノも手に入る。デザインが約束事を可視化する記号なのならば、そのデザインが制約という縛りを失った瞬間から「社会」は終わり始めていたんだろう。 そんな時、決まって人は回帰する。自由に自分を示せるようになったはいいが、自分の希薄さに不安し、ゆえに再び記号を身にまとう。みんなと同じ記号を身にまとうことで安心する。個人とはかくも危ういものなのだ。同じ記号を身にまとうことで同調する。ホストもコギャルも私も群れていたいのだ。 再びデザインがサインになってきた。 de-signじゃなくてre-signなのだ。 そんな意味ではギャルソンの服を着れる人はすばらしいと思う。
Posted by
- 1