ディア・ベイビー の商品レビュー
サローヤンという作家を知らなかった私は、『ディア・ベイビー』という作品を、そのタイトルからして、アメリカの軽佻浮薄な小説に違いないと思った。 ところが、試しに少し読んでみると、私の判断こそ軽佻浮薄であることがわかった。 特に「はるかな夜」は、文庫本のたった3ページ足らずの短編であ...
サローヤンという作家を知らなかった私は、『ディア・ベイビー』という作品を、そのタイトルからして、アメリカの軽佻浮薄な小説に違いないと思った。 ところが、試しに少し読んでみると、私の判断こそ軽佻浮薄であることがわかった。 特に「はるかな夜」は、文庫本のたった3ページ足らずの短編であるが、とても深い感銘を受けた。 「はるかな夜」の背景に、ずうっと、静かに、メランコリックな重低音が鳴り響いている。 主人公(著者自身と思われる)が、ある霧の日に、家にこもって古い歌を聴き入りながら、いつかニューヨークへ行く道すがらの出来事、つまりバスの中で出会いそして別れた娘との束の間のせつない恋を回想する。 その古い歌は、バスの中で娘に歌って聞かせた歌である。 「夜中、私がくちづけると娘は泣き出して、私はいとしさで胸がつまった。あれは八月の若い夜だった。・・・胸がつまったのは、私には私の道が、娘には娘の行く道があったからだ。・・・ひとには歩いて行く道があり、ほかの人々は皆、それとは違う道を行き、彼らもそれぞれが別の道へ別れてゆき、そして若いひとの何人かがいつも死んでゆく。・・・世間は狭いというけれども、再び会うことがなければ、そのひとたちは死んでいるのである。もし出会った場所へ戻って、ひとりひとりを捜し、見つけ出したとしても、彼らは死んでいるだろう。なぜなら、誰がどの道を行こうと、それは、ひとを殺す道なのである。」 「娘がやってきて、私の隣に座ったそのとき、私は、何年も待っていたのは彼女だったと知った。しかし、トペカで彼女がバスを降りたとき、私はバスに残り、三日後にはニューヨークに着いていた。 それだけのことではあるが、私の一部はいまでも、あの、はるかな暑いアメリカの夜に生きている。」 「はるかな夜」と並んで、「空中ブランコに乗った若者」も私の涙腺を大いにしぼる。 関汀子さんの翻訳も優れていると思う。 話が脱線するが、私の一部はいまでも、あの、はるかなお茶の水の夜に生きている。 高校時代、数学の恩師・榊和恵(仮名)先生は我ら男子生徒どものマドンナであった。 或る春の日、榊先生を巡るライバルの友人と共に神田書店街で受験参考書を物色していたとき、たまたま榊先生に出会い、語らいながら、お茶の水界隈を散策したのである。 榊先生は池袋方面にお帰りになるので、丸の内線御茶ノ水駅近くの橋から神田川のみなもを、皆でしばらく眺めていた。 何方の作か失念したが、「なつかしき春風と会ふお茶の水」がよく似合う。
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亡くなって随分経つ。 もう古典作家だな。短編集にあった「空しい旅の世界と本当の天国」が一番記憶に残っている。 この本もいい。何故か藤沢周平を思い起こす。
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サローヤンにしては、すこし暗めらしい短編集。 特に少年や男の子を書いた話がいいです。一瞬、一瞬の美しさに泣けました。
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ウィリアム・サローヤンの短編集。 この作品に収録されている「はるかな夜」が大好きだ。たった2ページの作品。ニューヨークに向かう長距離バスの中、主人公はある女性に出会う。しかし、二人には別々の行き先がある。出会いというもの、別れというもの、短い文で長い夜の出会いと別れをえがいてい...
ウィリアム・サローヤンの短編集。 この作品に収録されている「はるかな夜」が大好きだ。たった2ページの作品。ニューヨークに向かう長距離バスの中、主人公はある女性に出会う。しかし、二人には別々の行き先がある。出会いというもの、別れというもの、短い文で長い夜の出会いと別れをえがいています。
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