ドクトル・ジバゴ(下巻) の商品レビュー
『ところが、この穏和で、罪のない、ゆったりとした生活の流れが、一転、血と号泣のただなかに叩きこまれて、だれもがひとしなみの狂気と兇暴にとりつかれたように、時々刻々、休む間もない殺戮がくり返され、それが法にかなった行為、讃美の対象になってしまったの。』 『そのとき、ロシヤの大地に...
『ところが、この穏和で、罪のない、ゆったりとした生活の流れが、一転、血と号泣のただなかに叩きこまれて、だれもがひとしなみの狂気と兇暴にとりつかれたように、時々刻々、休む間もない殺戮がくり返され、それが法にかなった行為、讃美の対象になってしまったの。』 『そのとき、ロシヤの大地にいつわりがやってきたんだわ。いちばんの不幸、未来の悪の根元になったのは、個人の意見というものの価値を信じなくなってしまったことね。 …いまは…一律に押しつけられる借りものの考え方で生きていかなくちゃいけない、なんていう思い込みがひろまった。…』 この作品はロシア革命の黎明期からその内乱や第一次世界大戦を経たロシアがまさに全土あげて動乱にあった時代が舞台。自分を押し殺しての迎合が賢い生き方となり、自己表現が他人からの疎外はおろか、死に直結していた。 こんな閉塞状況で、ただ一人でも、自分の心情を理解する人が現れたら…。 ジバゴはラーラに出会い、人生とは詩のようなものであるべきで、詩には迎合や自己否定なんか必要なく、(自分の意のままにならない運命の翻弄や、禁じられた愛への傾倒はあっても、)まさに詩のように表現力をもって生きるべき、との考えを貫こうとした。そのジバゴ(=作者)の詩に対する一貫性が、読者の心をつかみ離さない。 一方、ラーラの感情の激しさやその悲しみが深いほど、寡黙で冷静なジバゴの心に写り、炎が燃え上がるようにパステルナークの筆が走るところは、圧巻である。 時代の熱さとは違った、二人の心の熱さがページからわき上がるようである。 (2007/10/5)
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日本に本当に四季があって良かった、と思うのはいろいろな国の文学について、気候を擬似体験しながら読むことができると思うからだ。 特に年末年始はロシアに限る。荒ぶるロシア革命を背景に叶わぬ恋がかすかな熱を帯びる時、寂びに満ちた庵に指された牡丹の蕾を思う。 ロシア革命の描写を緻密に描...
日本に本当に四季があって良かった、と思うのはいろいろな国の文学について、気候を擬似体験しながら読むことができると思うからだ。 特に年末年始はロシアに限る。荒ぶるロシア革命を背景に叶わぬ恋がかすかな熱を帯びる時、寂びに満ちた庵に指された牡丹の蕾を思う。 ロシア革命の描写を緻密に描く上巻に対し、一時期、ソ連で発禁をくらったことによる希少性もさることながら、衝撃的な展開と、柔和にして鋭利な精神世界の表現に対し相当なプレミアがついたという下巻は、まさに名著。 激しいブラストビートのさなか、台風の目の静けさへ奏でられるツインリードギターのごとき色彩を感じた表現を、以下感じるまま抜粋。 ーーー 奥さんどころの騒ぎじゃなかった。そんな時世じゃなかったのよ!世界のプロレタリアートとか、宇宙改造のことなら、話は話で、聞いてくれる。でも、奥さんだとかなんだとか、二本足の個人なんてものは、ばかばかしい、蚤やしらみにも劣る存在なのよ。 とんでもごぜえません、閣下、大佐さま。インターナショナルだなどと滅相もない!みんな読み書きもろくにできねえ馬鹿者ぞろいでして、古い祈祷書もつっけえつぅけえのあんべえで。革命なんて、とんでもございません この豚野郎、何を夢中で読んでいやがる? どんな女性でも子供を産むときには、孤独のうちに見捨てられ、自分自身をしか恃めない独特の光彩に包まれる 「われは、これ小市民」として、いまのわたしの理想は家庭の主婦、わたしの願いはー平穏な暮し、大碗にたっぷりのキャベツ汁
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