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宮廷歌人 紀貫之 の商品レビュー

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2013/06/30

紀貫之の伝記。 紀貫之の家系は、中興の祖船守の登場によって、 一時は公卿を出すほどの名家であったが、以後は人材に恵まれず、 加えて藤原氏による専権体制確立の時期に遭遇して、 その家門はじり貧に陥っていた。 貫之の童名は「内教坊の阿古久曽」であったことが 藤原清輔の写本した『古...

紀貫之の伝記。 紀貫之の家系は、中興の祖船守の登場によって、 一時は公卿を出すほどの名家であったが、以後は人材に恵まれず、 加えて藤原氏による専権体制確立の時期に遭遇して、 その家門はじり貧に陥っていた。 貫之の童名は「内教坊の阿古久曽」であったことが 藤原清輔の写本した『古今集』の注記にある。「内教坊」とは、 宮中にあって儀式の際に演奏する歌舞を教習する場であり、 「阿古」は「吾子」に通じて、「久曽」は愛称を示す接尾語であるので、 貫之は内教坊の妓女などを生母として 内教坊に生まれ育ったのではないかと推測される。 貫之は六位の子、五位の孫であるので、 蔭叙の恩典もないので、学問による立身を目指して、大学へ入学した。 貫之は三十を超えた程度の年齢で、紀友則、壬生忠岑、 凡河内躬恒らとともに『古今和歌集』の編纂に任命される。 撰者に特徴的なのは、はなはだしい卑官であったということ。 平安初期には漢詩文崇拝の風潮があり、国風暗黒時代として、 和歌は私的な文芸として捉えられていた面があるそう。 かな文字による『土佐日記』を彼が書いたことで、 女流日記が生まれる契機になったと言われる。 現在から考えると、紀貫之は日本文学史において、 非常に重要な人物だと考えられるが、当時の貫之は、 晩年は任官されることを願い奔走するほどであり、 決して裕福とは言いがたい生活だったそうである。

Posted byブクログ