宮廷歌人 紀貫之 の商品レビュー
紀貫之の伝記。 紀貫之の家系は、中興の祖船守の登場によって、 一時は公卿を出すほどの名家であったが、以後は人材に恵まれず、 加えて藤原氏による専権体制確立の時期に遭遇して、 その家門はじり貧に陥っていた。 貫之の童名は「内教坊の阿古久曽」であったことが 藤原清輔の写本した『古...
紀貫之の伝記。 紀貫之の家系は、中興の祖船守の登場によって、 一時は公卿を出すほどの名家であったが、以後は人材に恵まれず、 加えて藤原氏による専権体制確立の時期に遭遇して、 その家門はじり貧に陥っていた。 貫之の童名は「内教坊の阿古久曽」であったことが 藤原清輔の写本した『古今集』の注記にある。「内教坊」とは、 宮中にあって儀式の際に演奏する歌舞を教習する場であり、 「阿古」は「吾子」に通じて、「久曽」は愛称を示す接尾語であるので、 貫之は内教坊の妓女などを生母として 内教坊に生まれ育ったのではないかと推測される。 貫之は六位の子、五位の孫であるので、 蔭叙の恩典もないので、学問による立身を目指して、大学へ入学した。 貫之は三十を超えた程度の年齢で、紀友則、壬生忠岑、 凡河内躬恒らとともに『古今和歌集』の編纂に任命される。 撰者に特徴的なのは、はなはだしい卑官であったということ。 平安初期には漢詩文崇拝の風潮があり、国風暗黒時代として、 和歌は私的な文芸として捉えられていた面があるそう。 かな文字による『土佐日記』を彼が書いたことで、 女流日記が生まれる契機になったと言われる。 現在から考えると、紀貫之は日本文学史において、 非常に重要な人物だと考えられるが、当時の貫之は、 晩年は任官されることを願い奔走するほどであり、 決して裕福とは言いがたい生活だったそうである。
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