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キリシタン伝説百話 の商品レビュー

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2013/01/19
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チェック項目8箇所。秀吉はのちになって、「パードレたちを追放したのは、多数の大身たちをその教えにひき入れ、日本において反乱を起こすおそれがあるからで、そのことはだれも気づかなかった。自分だけはそれを見ぬいていた」といったという。1605年布教は75万人という”許教時代”のピークに迫ろうとしていた、南蛮風俗が大いに流行し、大名たちのなかにもポルトガル人のカルサン(短袴)をはくものまで現れた、あのキリシタン嫌いで有名な加藤清正でさえ、南蛮風の衣服を着ていたという、都や長崎では若者たちがそうした衣装を身につけ、信者でもないのに首からロザリオをさげたり腰に十字架をぶらさげたりして、覚えたばかりの聖歌を口ずさみながら颯爽と街中を歩く姿が見られた。禁教令によって、わが国に滞在していた外国人宣教師や信仰の堅い高山右近らは、長崎に集められ海外へ追放される、また都、大坂などにいた公家など当時の”知識人”キリシタンたち数十名が青森の外ヶ浜へ流刑になっている。「見るなの人形」……浦島太郎や見るなの座敷などタブーを犯したことによって不幸を招くという結末も多いが、「マリアの子ども」の少女など、ヨーロッパでは幸福をもたら話がある。秀吉は1587年、九州博多で「伴天連は20日以内に国外へ退去せよ」というはげしい”伴天連追放令”を出していたが、その後スペインのフィリピン総督の使節として来日したバプチスタ神父が滞在を願った時、これを許し、宣教活動も黙認していたのだった。もっともひどい弾圧は1603年でこの年の6月、島のキリシタンの指導者といわれていたジュアン・次郎左衛門が捕らわれた時である、次郎左衛門は平戸島との間にある岩ばかりの小島、中江の島んい送られて処刑されることになった(中江の島は潮が満ちると死骸をどこかへ運び去ってくれるので処置に手数がかからないため、多くのキリシタンたちはここへ運ばれて処刑されたという。キリスト教がきびしく禁じられ、どうしても改宗しないものたちは海外に流刑になったり、俵にいれられて河原に積みあげられたり、火をつけて踊らされたり(蓑踊り)していた。殉教者たちの死骸は十把一絡げにされて藤掛けと三ツ屋の境にあたる木曽川の堤沿いにある松の古木のもとに埋められた。キリシタンの伴天連は、三世鏡という南蛮の不思議な鏡を持っている、その鏡を見るものは、自分の未来の姿が写し出されるという、ある時一人の男がそれを見せられ、鏡のなかに次つぎと牛や馬、鳥や獣になった自分の怖しい姿が写し出されたので、びっくりして歎き悲しんだ。禁制が解かれたといっても、役人たちはまだキリシタンを快く思っていない時代であった、長崎の町などから布教にきた宣教師たちを捕らえて丸裸にし、後手に縛って村じゅう見せ物に連れまわしたりすることもあった。

Posted byブクログ