冬の家 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
冬の家感想 以前、古書店に行ったときにたまたま見掛け、これは冬子の本だ、間違いない!と直感し即購入した一冊。『冬の家』というタイトルの通り、秦冬子を中心とした秦家の歴史と、藤村との結婚生活に重きを置いた、所謂、島崎藤村『家』の補助著作。『家』を読み終えてから読もうと思った直感は正しく、内容の後半はほとんど『家』と『芽生』の冬子視点の補助である。ちょっとしたアナザーストーリー感が味わえるので、『家』の冬子がよく分からない、秦家のことをもっと知りたい、という人にはおすすめできる一冊。90年代の本なので入手難易度はそれほど高くないはず。割りと研究書の参考文献としても名前を見かける。 せっかくだから、これは、と思ったエピソードをいくつか備忘しておく。 ・冬子の出身地は北海道函館市。漁港で栄えたことから、家業である網問屋が盛況となり、冬子は幼い頃から姉妹と共にその手伝いをしていた。 ・秦慶治の家に対する方針は「独歩独歩で歩け」。これは北海道民が内地から北海道の地に移住してくる際に、元の土地で過ごした家や名字などを棄ててきたという流れを組んでいる。名や移転前の土地への未練を捨てたために、移住した土地で強くたくましく核家族を作り生計をたてるのが基本だった。核家族が中心であった一家の経営方針として、秦家に限らず広くそのような方針をとった家が多かった。 ・一方で、十七代以上祖先を辿れる島崎家は、兄弟は助け合い家を守るべし、との方針である。一方、秦家は上記の通り立身を趣とするところがあり、秦家と島崎家の家に対する見方が、藤村と冬子の心理的距離にあったとも言える(本著の全般的な意見) ・冬子が四女柳子を出産したときの死因は、藤村の手紙の中では「お冬の不用意な油断からの出血死」となっている。が、当時現場にいた小女の語るところでは、藤村不在の状況下で楠男と鶏二の殴りあいが発生して、思わずお冬は起き上がってしまった、とのこと(P12) ・冬子は通っていた礼拝堂の先生の影響で、文学界の前進である『女学雑誌』を愛読していた(「お冬と「女学雑誌」) ・明治女学院時代の藤村他『文学界』のメンツは当時の女学生の憧れの的。 ・佐藤輔子と藤村の仲は明治女学院でも噂に上っていた。冬子は佐藤輔子が藤村よりも親が選んだ許嫁を選んだことに、「輔子は本当に藤村のことが好きではなかったのか」などと思っていた。(「気弱な藤村先生」) ・佐藤輔子との恋に悩み一度教壇を離れた藤村だったが再び明治女学校に戻ってきた。その際、国文・英文の授業を受け持つも、英文は訳だけして意味を掘り下げることもしないという面白くない授業を展開したために、生徒に「石炭の燃えがら」というあだ名をつけられた。(「明治女学校でのお冬と藤村」) ・藤村と冬子が結婚したその日に長男の秀夫が、三男の友哉の世話を藤村夫妻に頼んだ。 ・冬子と藤村の出会いは、藤村が仙台から帰ってきた後、明治女学院の夏期講習に参加したとき。藤村と冬子は夏期講習中に接近するも、藤村が秦家の財力に遠慮して縁談を辞退していたところ、巌本善治が縁組みに積極的になった。この直前、炎上した明治女学校の再建のために秦家は多額の寄付を行っており、巌本と接点があった。(P131) ・秦慶治は金を援助する際、必ず「資本金」の名目で貸していた。独歩立身を願う秦家にとって、金を貸すということは、たとえ身内であってもあくまで立身出世を願っての援助ということらしい。藤村は慶治に『破戒』出版費を援助するよう懇願するが、その際も名目は「資本金」であり、「生活費」ではなかった。秦慶治が藤村の『破戒』執筆に際して資金を援助したのには、裏からお冬の口添えがあったのだろうといわれる。後に藤村は、その費用が尽きて神津猛に生活費の援助を要請する。 全体的に秦家ー島崎家の親兄弟に対する考え方の違いが、この本には書かれている。まさに『家』の補筆たるに相応しい一作。可能であれば『芽生』も読んでおくといいだろう。 ただ、『家』や『芽生』がいかに実在の人物をモデルとした作とはいえ、名前を書き換えてしまうのはいかがなものか。実名にされると『芽生』はだいぶ胸に来るものがあった。
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