上田閑照集(第9巻) の商品レビュー
『実存と虚存』(ちくま学芸文庫)などの文章を、再編集して収録している。 著者は人間のあり方を、「二重世界内存在」として捉える。もちろんそのとき、手がかりとされているのはハイデガーの哲学である。ハイデガーは『存在と時間』で、現存在の根本構造を「世界内存在」として理解している。世界...
『実存と虚存』(ちくま学芸文庫)などの文章を、再編集して収録している。 著者は人間のあり方を、「二重世界内存在」として捉える。もちろんそのとき、手がかりとされているのはハイデガーの哲学である。ハイデガーは『存在と時間』で、現存在の根本構造を「世界内存在」として理解している。世界には「……のため」という連関が張り渡されている。世界の内にあるということは、出会われるものをそのつどその連関のうちに位置づけて関わるという仕方で存在しているということにほかならない。 さらにハイデガーは、こうした世界に開かれているあり方を構成する契機として理解と情態性をあげた上で、「不安」を根本情態性と規定している。不安に直面するとき、内世界的に存在するものの全体が意義を失い、有意義性を帯びた関連全体としての世界が滑り去ってしまう。だがこのとき、「世界連環が向かってゆくのは存在するものそのものであって、そのほかの何ものでも無い」(sonst nichts)ということが露わになる。さらに『形而上学では何か』では、「現‐存在とは、無(das Nichts)のうちに差し入れられて保たれているということである」と述べられることになる。 著者はこの「無」(das Nichts)を、西田幾多郎の「絶対無の場所」として捉えなおそうとする。私たちはそのつど、意味連関によって織りなされる有限の世界に生きていると同時に、この世界の連関をさらに超え包んでいる「限りない開け」ないし「虚空」に「於てある」とされる。私たちが無に差しかけられているということは、この「世界/虚空」の「二重世界内存在」を生きているということを意味している。 さらに著者は、二重世界内存在を生きる主体を、鈴木大拙の「即非の論理」の表現を借りて「我は、我ならずして、我なり」と表現する。「世界連環が向かってゆくのは存在するものそのものであって、そのほかの何ものでもない」ような具体的な世界の背後に回るのではなく、「我なし」という仕方で「死を能くし得る者」として在るとき、私たちは有限の世界連関のうちに生きることを「遊戯」と見る境地に達している。西田幾多郎が、「かかる世に何を以て楽しみとして生きるか」と自問して、「呼吸するも一つの快楽なり」と答えたとき、彼はこうした境地にあったのではないかと、著者は考えている。
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