地名の秘密 の商品レビュー
最近は市町村合併等の影響もあり、地名が変わってしまうこともあるようですが、地名はその土地の歴史や災害等の記録を伝えてきている重要な情報源のように思います。 特に、台風や津波等の自然災害で被害が大きく出るような場所には、それを警告するような名前が付けられていることでしょう。この本...
最近は市町村合併等の影響もあり、地名が変わってしまうこともあるようですが、地名はその土地の歴史や災害等の記録を伝えてきている重要な情報源のように思います。 特に、台風や津波等の自然災害で被害が大きく出るような場所には、それを警告するような名前が付けられていることでしょう。この本のサブタイトルにあるように、この本を通じて「秘められた歴史の謎」に迫ることができたひと時でした。 以下は気になったポイントです。 ・地名は、土地と人との関係を表す「化石」のようなもの(p4) ・「長者」の地名は、谷や湿地で岩などを叩く、崖崩れの地、という意味(p13) ・豊臣・徳川時代の初期、日本の人口が1200-1400万人といわれるなかで、キリシタンは300万人であると推計された(p17) ・「入」のついた地名を見たら、入口ではなく「奥に入った部分」と解したほうがよい(p20) ・「広」のつく地名には、広岡・広田・広井等があるが、そうした地名で浸水被害にあっている土地は多い、すべて低いと言う意味の「ヒロ」である(p33) ・1601-23年の間の22年間で御所を含めて46もの城がつくられている、全国の平城の誕生は、天下統一でのリストラと、それにともなうセーフティネットであった(p34) ・河川に関係する浸水被害にかかわる地名は、芝、芝生、柴谷、柴原、柴内、芝坂等がある(p35) ・松竹梅の地名のうち、「竹」や「梅」は地滑り等災害の起こり得る地名が多い、竹屋敷の地名は地すべり土砂崩れの土地が多く、そこには竹を植えて土留め工事の代わりとした(p42) ・東京の城には、江戸城以外にも記録に残っているだけでも、10の城が建てられた(p91) ・4世紀に古墳を構築した人物を示すものとして、狛江市・調布市・世田谷区「砧」・田園調布の地名で残っている(p93) ・全国には「渋谷」という地名は数十か所ある、狭い谷や谷口という地形に漢字を当てたもの(p99) ・明治に改元される明治元年9月8日の2か月ほど前(慶応4年7.17)に詔書により、江戸は東京になった(p108) ・佃の地名のある土地は、古代に荘園が置かれ、しかも良質な田畑の地だった(p118) ・古語で「ニタ」とつく地名(仁田、仁多、仁太、似田)は、湿地を意味する(p127) ・明治25年の帯広の5万分の1の地図では、100%がアイヌ語地名だったが、20年前の地図では35%程度(p134) ・串に刺した団子が4個から3個になる境は、東京23区である(p141) ・日暮里は、朝鮮語の地名であり、堀は朝鮮語の「プル=都」が転化したもの(p146) ・春日神社のある場所は、摂関家の誰かの荘園であった、春日社のある周辺には中世の武士団が成長した土地が多い(p181) ・相模国の旧家とされる家は151家、そのうち武士が65家、リストラされた武家が土着して農家が75%も増えたことになる、武蔵国の場合は、旧家477家のうち280家が後北条氏の遺臣である(p188) ・佐竹氏(54万石)の場合、5000騎の家臣団のうち、秋田(20万石)に同行したのは、わずか93騎、それ以外の者の多くは土着して村役人になった(p202) ・鉱床の上部には金や銀があり、下に下がるほど銅等の諸金属となり、最下部に鉛がある、金銀銅など鉱山はどれも同じで、その産出量が経済的に見合うかに過ぎない(p237) 2012年8月15日作成
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