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2022/02/07

無性に或る作家の世界観や文章表現に触れたくなる時がある。リンジーはその一人で、定期的に〝読まなければならない〟という衝動に駆られてしまう。本作も、私の言い様のない渇きを癒やす泉のような作品だった。 ヒューストン警察の刑事スチュアート・ヘイドンは、望まない昇進を上層部に強要され、...

無性に或る作家の世界観や文章表現に触れたくなる時がある。リンジーはその一人で、定期的に〝読まなければならない〟という衝動に駆られてしまう。本作も、私の言い様のない渇きを癒やす泉のような作品だった。 ヒューストン警察の刑事スチュアート・ヘイドンは、望まない昇進を上層部に強要され、己の進むべき道に悩んでいた。管理職になれば、直接悪と対峙する機会が失われる。彼はどこまでも一介の刑事でありたかった。そんな折、自宅に匿名の封書が届く。中に入っていたのは色褪せた写真一枚。見知らぬ若い男の肖像画だった。次の日も写真が届いた。一枚目の男の肖像を描く女の後ろ姿。三日目には、どこかの街角に佇む二枚目の女。彼女も初見だった。この謎めいた写真を送り続ける者は誰か。その目的とは何か。ヘイドンは不覚にも、一枚目で描かれていた男の正体にようやく気付く。数十年前、飛行機事故によって妻と共に死んだウェブスター・ヘイドン。代々続く弁護士稼業を継いで欲しいと常に息子に願っていた男。実父だった。自分の知ることのない青年期の父親、その精悍な姿に呆然とする刑事。やがて、最後となる六枚目が届いた。最近のヘイドンを盗撮したもので、そこには明確なメッセージが記されていた。頭を銃弾で撃ち抜いたような書き込み。己の生命を狙う理由とは何か。何故あえて殺害を予告するのか。そもそも父親の過去に何があり、ヘイドンの命で贖うことを求めるのか。画家らしき女とは、どんな関係にあったのか。全てが霧の中だった。ヘイドンは真相を探るべく、厚く塗り重なる父親ウェブスターの肖像を削り、その奥に隠された事実へと迫る覚悟を決めた。 ヘイドン刑事シリーズ第四弾で1988年発表作。共通する軸は警察小説だが、リンジーは一作ごとにテーマ性を持たせており、大きく印象が異なる。本作は、ヘイドンの父親の知られざる過去を探るという極めて私的なもので、ミステリとしては物足りなさを覚える読み手もいるだろう。だが、リンジーの真骨頂を味わいたいならば、この作品は外せない。翻訳者/山本光伸がリンジーは本作を書きたいが故にヘイドンを創造したのではないかと鋭く指摘しているが、同感だ。入り組んだ謎も刺激的な事件もないが、各々が罪過に捕らわれたまま崩壊していく人間模様を冷徹に描き切り、中盤から終盤にかけての濃密な展開には眼を見張るものがあった。真相へと一歩一歩近付いていく過程が、紛れもなく上質なサスペンスを生み出している。つまり、極上のミステリなのである。リンジーの技倆は、この時点で成熟の極みにあったのだろう。時間をかけてじっくりと読み、堪能した。そして、人間の業を鋭く抉り出すこの作家の類い稀なる力量にあらためて感嘆した。 父親の過去を知る者たちと接触し、徐々に明らかとなっていく新たな肖像にヘイドンは驚き、戸惑い続ける。舞台はヒューストンからメキシコシティへ。そこには、かつて父親が愛した富豪にして絶世の美女、アマランタがいた。ヘイドンがこの世に誕生する前、二人は激しい恋に落ちたが、或る日を境に途切れていた。だが、その関係は父がヘイドンの母と結婚して以降も続いていたようだ。二人の不可解な愛の軌跡を辿るほどに、ヘイドンを狙う殺人者の影もまた色濃くなっていく。 前作「拷問と暗殺」(1986)の過激なストーリーとは異なり、本作は全編静謐に流れていく。陽気で乾いたイメージのあるメキシコの情景は、その歴史を紐解きつつ、物語の中で降り続く雨のようにしっとりと描写され、思索的で内向的なヘイドンの心情と溶け合う。尊敬する父親の隠された真実を探求するプロットは、限りなく情熱的で、どこまでも生々しい色彩に溢れている。そして、過去の父親の恋愛と呼応するように、ヘイドン自身の淡いロマンスも絡めていくのだが、より深い感傷へと導く文章の技巧が素晴らしい。 リンジーは一貫してなぜ罪を犯すのかにテーマを置いており、時に殺人者と同化するまでの感応、洞察力を持つ主人公を通して、その動因を解き明かしていく。本作ではさらに、父親の存在とは何であったかを知ることによって得るヘイドン自身のアイデンティティ確立までも追っていく。決してバランスを崩すことなく、数多い登場人物を造形するリンジーの力は底知れない。 激情を抑えた静かなエピローグ。終幕のシーンがより一層重く迫ってくるのは、ありふれた日常の中に潜む悲劇が、読み手の〝愛する〟という根源的感情まで揺り動かすからだろう。こんなにも深い人間ドラマを見事な筆致で描いた作家の才能に平伏する。

Posted byブクログ