カムイ伝 第二部(1) の商品レビュー
カムイ伝第二部は何処に行くのか ひとつ断っておかなくてはならないことがある。私は上記のテーマを掲げた。もう何年も一度は書かなくてはならないと思っていたからである。しかし、何処に行くのか、と書いたからといって、中断している「カムイ伝」が再開するとは一ミリも思っていないのである。 ...
カムイ伝第二部は何処に行くのか ひとつ断っておかなくてはならないことがある。私は上記のテーマを掲げた。もう何年も一度は書かなくてはならないと思っていたからである。しかし、何処に行くのか、と書いたからといって、中断している「カムイ伝」が再開するとは一ミリも思っていないのである。 もう10年ほど前に「カムイ外伝」の映画化がされた折に、白土三平は何の気まぐれか、外伝を再開すると、銘打った。待ちに待った中編「イコナ」を見て、私はカムイ伝の終わりを知ることになった。話もキレがわるくなっているが、それよりも画がどうしようもない所まで悪化していた。デッサンの狂い、線のみだれ、粗雑な背景。作画に「岡本鉄二」の名前も無かった。赤目プロは瓦解していた。もう幻想を抱いてはならない。「カムイ伝」は第二部で、永遠に中断したのである。 ならば、第二部はいったい何を描いて、何処に行こうとしていたのか。短い評論は幾つかある。しかし、全22巻にもなろうとしている、その全貌をキチンと批評した文を、寡聞にして私は読んだことがない。私には荷が重い課題であると、十分承知しつつも、やがて訪れるであろうXデーを機に、一気に華やかに展開されるであろう白土三平評論の先鞭をつけておくのは、その後の評論に何か資するかもしれない、と思い、やってみることにした。 やり方としては、底本を小学館のゴールデンコミックスに取りつつも、巻数毎の批評とはせずに、章毎の批評したい。 よって、最初は第一巻と二巻に跨って展開された「猿山」について述べる。 第二部はなんと明確に「明暦2年(1656年)」という、元号から始まる。「カムイ外伝」第12巻「剣風」のラストが、1654年だった(柳生の解説文章から類推)。第二部は律儀に外伝の終わった直後から始まったと見ていいのかもしれない。第一部が架空の藩の日置藩としたせいもあり、幕藩体制が固まりつつある時代だとはわかっていたが、明確な年代までは遂にはわからなかった。最初にこの言葉から始めたのは、白土三平の第二部への意図が、明確に歴史的事件と絡めてこの長編を作ろうとしていることがわかる。もちろん第一章「猿山」は人間世界の歴史とは、とりあえず無縁性が高い自然社会なので、明暦2年の言葉が活きるのはまだまだずっと後の話になる。ただ、日置7万石が改易となりその城がずいぶんとボロボロになっているので、日置大一揆から少なくとも5年以上は経っている。となると、第一部の年代もハッキリする(おそらく日置大一揆は慶安の時代)ということになる。 白土三平にとっては、自然と相対することは人生そのものだ。カムイ伝は、個人と社会そして歴史との関係を描いた壮大な絵巻物であるが、それと同じ比重で、人間と自然との関係をも描こうとした。猿は自然の中でも、最も人間に近い動物であり、動物の中でも明確に「猿社会」を確立して、階層化も進んでいる。猿から見た人間、人間から見た猿。第二部がそこから始めたのは、今回明確に歴史的事件を扱うと共に、明確に人間と自然との関係、そして違いを扱う、作者の決意表明なのではないか。 猿の序列社会は一見人間社会と似ているように思える。この一巻は、その類似性を見せているのではないか。もちろん、白土三平。単なるサル社会を延々300ページ以上にも渡って見せるはずがない。そこにはタテガミとカミナリの個人的歴史を想像させる遂には明らかにされなかったドラマと、定住だけではない、「放浪の世界」もサル世界にはあるはずだと、という白土三平の「思い」も見せるだろう(後で調べると、日本ザルはオスは放浪ザルがけっこういるらしい)。
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