複数にして単数の存在 の商品レビュー
この著者の、すでに読んだ『無為の共同体』『神的な様々の場』よりも本書はぐっと難しくなっていると感じた。内容も難解なのだが、訳文のせいもあるかもしれない。ぱっと見て文法的に把握しにくい和文になっているのだ。 さて、マルティン・ブーバーはふたつの根元的な関係性として<われーなんじ>...
この著者の、すでに読んだ『無為の共同体』『神的な様々の場』よりも本書はぐっと難しくなっていると感じた。内容も難解なのだが、訳文のせいもあるかもしれない。ぱっと見て文法的に把握しにくい和文になっているのだ。 さて、マルティン・ブーバーはふたつの根元的な関係性として<われーなんじ><われーそれ>を挙げたが、ここでナンシーが言う「われわれ」とはそれらとはまた異なるタイプの、あらたな関係性である。 『無為の共同体』を読んだとき、結局この「共同体」という概念が腑に落ちないと感じたものだが、ナンシーはこの本でそれを「われわれ」という概念で詳細に追求している。 存在することとは、最初から共に-あることなのである。 フッサールやハイデッガーのように「自己(主体/単独の存在)」から始めるのは誤りであり、最初から「実存は複数で、単数的に複数のものとして実存する」(P.120)とナンシーはいう。 これは、主体が発動するよりも先に<関係性>やその関係性の<場所>が存在し、そこからすべてが生成される、という現在の私の考えとある程度一致する。 ただし、共に-あることが、やがて集団自我という幻想を引き起こし、暴徒化やヒステリックな諸現象をもたらすという、非常に気になる点については、ナンシーは語っていない。もちろんナンシーが言おうとしているのはそのような集団心理などでは全くないのだが。 「共に-あること」は、それでは、レヴィナスのように倫理の創成に結びついていくのかというと、ナンシーはどうやらそういうわけでもない。少なくとも、私がこのすこぶる難解な書物をいちど読み流した限りでは、ジャン=リュック・ナンシーの最終的な思考の方向性というのはよくわからない。 「共に-あること」とはどういう意味をもちうるのか? 極めて興味深い書物であり、刺激的であるが、一度読んだだけでは、どうもわからない部分が大きいようだ。 しかし、これが優れた書物であるということは、感じることができる。
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