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ネクスト の商品レビュー

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2014/08/19

本書の著者エツィオーニは(政治学者ではなく)社会学者であり、コミュニタリアニズムに基づく社会運動の指導者の一人。 本書ではまず、(1)コミュニタリアニズムが右派でも左派でもない中道主義であること、(2)「政府と市場」という従来の対立軸に「コミュニティ」という新たな部門を設け、3...

本書の著者エツィオーニは(政治学者ではなく)社会学者であり、コミュニタリアニズムに基づく社会運動の指導者の一人。 本書ではまず、(1)コミュニタリアニズムが右派でも左派でもない中道主義であること、(2)「政府と市場」という従来の対立軸に「コミュニティ」という新たな部門を設け、3者が互いに抑制しつつバランスをとることが重要だということ、(3)人を「(金儲けの)手段」としてではなく「目的」として扱うこと、などを強調する。 その上でどのような政策を実施すべきか検討し、著者なりの提案をしている。著者の議論からは、コミュニタリアンがネオコン的政策に反対するからといって決して大きな政府を求めるものではないということがよくわかる。政府の仕事を最小限に限定しつつ、従来政府が担っていた仕事の大部分を民間やコミュニティが責任をもって実行すべき、というのが特徴である。 「コミュニティ」の概念については、従来の地縁・血縁に基づくゲマインシャフトだけではなく、職場の仲間や共通の趣味をもった人の集まりなど、あらゆる近代的人間関係にまで拡大されている(ただし金儲けを目的とする集団は市場に属するのでコミュニティには含めない)。これはコミュニタリアニズムが前時代的な“いわゆる共同体”を復古させようとしているという誤解への大きな反論となる。個人的には、土地に基づいたコミュニティを第一としたいところだけど、その土地になじめない、入っていけない人というのは必ず存在するから、そういった人たちが所属するコミュニティはあるべきだと思う。 著者は、不道徳を排除するためには、法律で上から押し付けるのではなく、コミュニティの品位ある自浄作用=自己規制に委ねるべきという(表現の自由に対する規制などの文脈で)。法律でも法律じゃなくてもとにかく縛られるのはイヤ!というリバタリアンには嫌われそうな理論だけど、押し付けはダメ、放任も問題アリ、となれば検討されてしかるべきテーゼであると思う。この辺りの議論は先に読んだ本で知ったハイエクの「自生的秩序」の考え方とも符合する。 著者はまた、政治の場で政治家の個人攻撃をするべきではないと警告している。政策を戦わせずに、カネ絡みのスキャンダルや些末な問題(漢字が読めないとか)に終始する日本の政治とマスコミにもあてはまることだ。国民は誰もが辟易としている。国会でそんな罵り合戦はすべきでないと誰もが分かっているけど、政治家(わけても野党議員)はそれをやってしまう。著者の言うように、何らかの規制を設けてもいいのかもしれない。 最後の章では、ある重要な2つの社会学の研究が引用される。一つは、貧富の差と幸福の度合いとの間には相関関係がないという研究。もう一つは、高度成長期と低迷期の社会において、人々の幸福の度合いにはさほど差が見られないという研究。すなわち、ある程度の生活が送れていれば、それ以上の幸福はお金によらないということ。経済ばかりを追い求めるのではなく、社会的人間関係を構築し、人々が互いの精神を高め合うべきとする著者の主張には深く首肯できる。 本書に書かれていることは、優等生的過ぎてツマラナイと思う人もいるだろう。“現実主義者”から言わせれば、「キレイゴト」かもしれない。しかし「キレイゴトである」というだけで、現実を理想に近づける努力を放棄する理由にはならないということを言っておきたい。 本書について一つ難点を挙げるなら(特に前半)、直訳調で読みにくいということ。訳文から原文の単語や構文が想像できてしまい、「どう訳せばより良いか」とか考えてしまって、時折、本の内容そのものを読むことの妨げになってしまった。

Posted byブクログ

2009/10/04

保守と新自由主義、リバータリアニズム。あるいはそれと対極にあるリベラリズムの道。いわゆる「右」と「左」の対立構造の中にあって、そのいずれにも与さない「中道主義」による公共のあり方を提示する一冊。 http://d.hatena.ne.jp/hachiro86/20080514

Posted byブクログ