ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む の商品レビュー
ハイドンの作品は、高級レストランの贅を尽くしたディナーというよりは、ありあわせの素材と限られた時間のなかで作りだされる(しかしとびきり冴えわたった)まかない料理のようなものだ。 帯にも引用されている「はじめに」の冒頭の台詞をここにまた引用してくるのはまるで芸がないのだが、お...
ハイドンの作品は、高級レストランの贅を尽くしたディナーというよりは、ありあわせの素材と限られた時間のなかで作りだされる(しかしとびきり冴えわたった)まかない料理のようなものだ。 帯にも引用されている「はじめに」の冒頭の台詞をここにまた引用してくるのはまるで芸がないのだが、おお、そうだ、そうだ、その通り、喉まで出かかっていた言葉をかわりに言ってもらって、喉のつかえが取れた気がしたのである。 ハイドンの音楽って、どこがいいのか簡単には表現できない。それを描き出そうとしたのが本書である。 著者、伊東信宏氏はよく知っている。いや、個人的にというわけではなく。中公新書の『バルトーク』で。あの本も、作曲家の生きた時代を風土を踏まえて、凡百のバルトーク論では得られないような視点を示していた。バルトークとハイドンって繋がりがないみたいだが、ハンガリーで結びつくのである。ハイドンは30年に渡って、当時オーストリアの版図にあったハンガリーの貴族エステルハージ伯爵に仕えたのだ。通常ニコラウス候と称されるかの侯爵も本書ではミクローシュ候と記されるあたりハンガリーに留学した音楽学者である。彼の指導教官ショムファイはバルトークとともにハイドンの研究でも有名なのであった。 著者はショムファイのある記述を引いて「作品の外を描写しながら、それが同時に作品の内側を語ることにもなっているような、そんなポイントを見つけ出すこと」を理想とし、まずは作品の外を周到に描写する。ハンガリーを支配するオーストリア帝国のマリア・テレジア女帝の政策とハンガリーの有力貴族エステルハージ家の政治的位置、ハイドンの活躍した離宮エステルハーザの原野にぽつんと建てられた立地条件、楽士の身分と領主との関係、クラヴィーアと一括されるチェンバロからフォルテピアノへの発展といった論考が全体の三分の一くらいまで続く。 エステルハージ・ソナタとはハイドンのクラヴィーア・ソナタ中では比較的初期のものだが、領主ニコラウス候に献呈された6曲組みで、本書では6曲の第1楽章の分析が行われる。しかもその分析は作曲者の意図に忠実に作品の「意味」を丹念に追っていくといった正統的な分析はほどほどに、ありあわせの素材とタイミングと着想が相まって作りだされる「まかない料理」に相応しいやり方で迎えることが本書の基本的視座だという。筆者は例えば音楽の「身振り」に注目する。この「身振り」とはピアノを弾く指の癖のようなものばかりではなく、音そのものが上がったり下がったりする「身振り」であり、音楽を聴くときに聴き手が自然と体を揺すっているその動きと呼応しているような「身振り」のことである。この「身振り」が曲の中でどのように変形され、断絶し、再び生じてくるかといった分析が、なるほどハイドンの曲のおもしろさを開示してくれるのだ。 本書では6曲の第1楽章のスコアが付録でついており、楽譜を見ながらCDを聴くと、著者のいいたいことがよくわかる仕組みとなっている。 モーツァルト派でもなく、ベートーヴェン派でもなく、ハイドン派を自認する者(そんな人が私のほかにもいたら)は必読。
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