近世宮廷の和歌訓練 の商品レビュー
御水尾院の皇室ルネサンスの御営為を『万治御点』の読解を通じて浮き彫りにする労作。現代にも、真摯な態度で古典に向かう国文研究者が存在するということに安堵のような、ありがたい気持ちになる。矢張り、文藝が個人の「作品」であると当たり前に思っている現代から見れば、凡庸月並みにも思える「題...
御水尾院の皇室ルネサンスの御営為を『万治御点』の読解を通じて浮き彫りにする労作。現代にも、真摯な態度で古典に向かう国文研究者が存在するということに安堵のような、ありがたい気持ちになる。矢張り、文藝が個人の「作品」であると当たり前に思っている現代から見れば、凡庸月並みにも思える「題詠」という営みも、実際には激しい積極的な、能動的な営みだったのではないか、という視点、作品を読み込むことで得られる作者に対する懐かしい感情などなど。 和歌訓練に参加した無名の人々にも、「ひそかで豪華な営み」をみようとし、江戸時代を通じても和歌の力は衰退してはいなかったと説く。実際にはかなり挑戦的な試みだと思われる。「むしろ自然の推定としては、宮廷和歌の充実が、和歌史上の江戸時代の基礎となったのであり、歌学の堅持される最も大きな原動力となったとみるべき」、「しっかりとした詠歌を巡る知識の集団がある、ということが全国のあらゆる階層の人々にとって心の中の文化の支えになった」というような視点は、例えば保田與重郎の文藝観に通じるものであるし、宮廷和歌の生命力の本源に宮廷自身、権威それ自身による強烈な反省の態度を見るなど、矢張り民間文藝の精華として江戸を見る視点からみれば挑戦的かつ新しい解釈だと言ってよい。「ある権威が何世代にもわたって生き続けるためには、そのヒエラルキーの内側に健康な自己批判と自由な議論が無ければ不可能です。」という文章は、文藝のみならず、皇室文化、或いは、伝統というものを考える時に、われわれに大きな視点の転換と反省を迫るものだと思う。「~に過ぎない」という過去断罪のポーズを我々はいつの間にか進歩的であると錯誤してはいなかったか。伝統の側の権威主義を論うあまり、その内部にあった自在な精神の働きを看過しては来なかったか。 具体的な記述としては、御水尾院が御即位当時18歳だった後西天皇を鍛え上げる為に為された歌の道場の記録であるが、その下準備や予習、採点記録などの解釈もすこぶる興味深い。御水尾院の「何ともなけれどもめづらしき事も無し」「耳なれたる趣向也」などの批言には息をつく思いだ。 この著者は、古い版の『国歌大観』(正続索引合わせ4巻本)を通読せよ、と勧める。「我慢をして、全部読んでごらんなさい。そうしますと、ある種の覚悟が出来ますから」という体得を教える(おそらく折口信夫以来かも)。水の様にあっさりと言ってのける、こういう学殖の人が存在することは、我が国の人文学の厚みをまだまだ感じさせる、そういう学問に対する信頼までも読者に感じさせる一冊だった。
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