戦争論妄想論 の商品レビュー
『戦争論』への「批判」は、単なる「感情的非難」もしくは、高みから見下ろすような「権威主義的論断」に終始することが多かった。このような真摯な反省を基に、本著は『戦争論』を巡る論理と構造、そしてそれが提出する「挑戦」に光を当てる。 先ず認識されなくてはいけないことは、「修正主義史観...
『戦争論』への「批判」は、単なる「感情的非難」もしくは、高みから見下ろすような「権威主義的論断」に終始することが多かった。このような真摯な反省を基に、本著は『戦争論』を巡る論理と構造、そしてそれが提出する「挑戦」に光を当てる。 先ず認識されなくてはいけないことは、「修正主義史観」とは単なる「反動」ではなく、むしろ「ポストモダン史学」の一派なのである。 代表的右派イデオローグである西尾幹二が、「歴史」とは特定の個人もしくは集団の主観的観点から紡ぎだされる「物語」であり「虚構」に過ぎない、と大胆にも宣言してしまう「裏技」に出ていることからも明らかだ。 だが、これは「歴史的真実」の「権威性」に担保されたアカデミズム史学を、全き根底から否定する「ポストモダン史学」のグロテスクな表現であり、彼はこれを居直り的・戦略的に活用しているのだ。 この「ポストモダン的居直り史学」の特徴は、その前提から、資料に基づいた「批判」による修正という正統史学的プロセスを無効としている点だ。第一「我々が信じたい歴史を我々は自由につくるんだ!」というモーメントがあり、何より彼らの「歴史」とは、彼らにとって「都合のよい」エピソードの寄せ集め、総目録に過ぎないのである。 彼らの歴史が「実証主義的」にみて全くのデタラメだというのは、歴史を「マンガ」以外の媒体でまともに学んだことのあるものであれば誰でもわかる。問題の本質とは、彼らにとって「歴史的実証性」とは最早「失効」した「イデオロギー」に他ならず、これを盾にいくら声を張り上げても彼らの耳には決して届きはしないのである。 彼らにとって「気に食わない」ものは十把一絡げ全て、「反日売国奴バカサヨク」の「イデオロギー」「デマ」「プロパガンダ」「偏向」「妄言」等の過度に戯画化された表象によって一刀両断無碍も無く葬り去られてしまう。なにを隠そう、これが数多専門家による激烈な「批判」をものともしない彼らの「強さ」そのものなのである。 だが、彼らは「大文字の真実」の「死」を宣告した後、自らの「小文字の真実」の砦にいそいそと篭城を決め込む。「西洋個人主義」という「偶像」を葬り去った後、日本という新たな「偶像」を拵えそこに安住せんとする俗流ニーチェ主義者西尾はともかく、本来は既存の「真実」「主流」「大衆」に対する強烈な「アンチ」「批判者」として出発したはずの小林であり藤岡が、いつの間にか自らが新たに拵えた「虚構的真実」の小世界へ撤退してしまうという皮肉がある(とはいえ、本書で指摘されたように、彼らの語る「歴史」が全く「オリジナリティー」に欠けるものであることはまた別の話である)。 社会は「小文字の真実」に小宇宙の乱立により分断化される。これらの「小宇宙」は互いに交通すること無くそれぞれが自己完結する。これが諸「論争」における表面的「華やかさ」の背景で深まる本質的「沈黙」という逆説となっているように思えてならない。 ただ本書の若桑が指摘するように、『戦争論』が若者の「主体性」の喚起に資していることは事実だ。この古くも新しい「試み」が、果たして実を結ぶかは未知数だ。だが、「ファシズム」が必要とするものは社会の包括的支配を可能とする「大きな物語」である。ところがこの「大きな物語の失効」は彼らの存在のそもそもの大前提なのである。原初的に「はしごを外され」た彼らの運動は単なる茶番以上のものにはなりえないだろう。 「人間は、意味がないから良い生をいきられないのではなく、良き生を生きられないから意味にすがるのだ」(13p) これはニーチェの言葉であるが、これ以上「意味」を熱狂的に欲望する「よしりん信者」の集団的心性を冷徹に表しているものはない。しかしこの「ニヒリズム」は、悲愴な「虚構」に溺れるも自由、ただし人に迷惑はかけるベからず、いわばポスト自由主義的な「オタク社会」が胚胎する無限の「シラケ」、はたまた「ユーモア」でもある。「生の無意味さ」とあくまで戯れるも一興、絶望の淵源にて呻吟するも一興ということであるのかもしれない。
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宮台真司の名前に惹かれて手に取った一冊。 小林よしのりの勇気に対して敬意を評したいといつも思っていたが、まっこうからそこに対して反論している内容をまとまって知れるのはとても面白い。 ちらっとしか読んでいないので、いずれきちんと読みたい。
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