ヴァージニア・ウルフ短篇集 の商品レビュー
買った後、喫茶店で購入した本をちらちら眺める至福の時間(それきり読んでいない本も数々・・・)。「ヴァージニア・ウルフ短篇集」では「ミス・Vの不思議な一件」を読んでみる。自分は短篇集の場合、あんまり順番通りには読まない。ミス・Vとは作者自身? ウルフ流ミリアム? でも「ミリアム」よ...
買った後、喫茶店で購入した本をちらちら眺める至福の時間(それきり読んでいない本も数々・・・)。「ヴァージニア・ウルフ短篇集」では「ミス・Vの不思議な一件」を読んでみる。自分は短篇集の場合、あんまり順番通りには読まない。ミス・Vとは作者自身? ウルフ流ミリアム? でも「ミリアム」よりこちらの方が想像力が働く余地が広くて自分好み。と、語り手とミス・Vを同一人物と思って読んでいたけれど、「解説」には別人という解釈で載っていた。まあ、それもよろし。 (2008 09/14) 今日は、前から少しずつ読んでいたヴァージニア・ウルフの短編集を持ってきた。 自分は「オーランドー」の執筆している時間の経過の描写や、「灯台へ」の朽ち果てそうになる屋敷の描写など、ウルフは時間を描くのが巧いなあ、ってかとりつかれているなあ、と思っているのだが、ここでも、主人公はやはり時間のような気がする。「堅固な対象」のジョンが探し求める何かのかけらなど。それらはどこに生まれて、どこを通ってきたのか?そして、何をもって彼の元へ辿り着いたのか?そんなかけらはまた、彼の意識の中へ沈澱していく。かけらはまたもや(今度は海ではなく、意識の)波に揉まれてますます丸くなっていく。 とか。 「サーチライト」では、過去の曾祖父の話と今の話が見分けがつかなくなったり… 「緑と青」という断片詩といってもいい短編でも、昼と夜との交替がテーマ… 時間って本当に始点から終末に向かって流れるものなのだろうか? (2008 12/01) 引き続き、「堅固な対象」と「サーチライト」から。まずは「堅固な対象」から。 考えごとの途中で何度も何度も視線の対象となったものというのは、それが何であれ、思索の織物と深く関係を持ち、本来の姿を失い、少し違ったふうに、空想的な形に自らを作りなおし、まったく思いつけない時に意識の表面に浮かびでたりするものだ。 (P35) ここで登場するジョンという人物、あるいはウルフという作家は、なんと言うか自分自身を外在のもの(ここでは波に揉まれたガラス、陶器の欠片)に転位(あまりよい言葉がみつからないが)し、それら外在のものが自分内部に入り込む、外在のものはそこで単に異化されるのではなく、自分自身も異化のものとして並列に並んで存在する。そんな感じ。ガラスと欠片と自分(の中の何か?)がともに波に現れる幻想、というよりも記憶。 「サーチライト」ではこの一文。 「光は」と彼女は付けくわえた。袖無し外套やら何やらを拾いあげながら、「ただあちらこちら照らすだけ」 (P59) まさにサーチライトであるが、「光」という言葉は西洋人にとって「神」と直結する言葉なのかもしれない。しかし、ここでの表現は「全能の神」を否定するかのような、それは無神論とかいうより人間の意識から到達不可能な部分を神から差し引いたというような、そんな表現である。物語論でいえば、作者という登場人物に対しての特権的権限を放棄すべき、ということだろう。 この短篇集に収められた他の作品でも、欠片のことがクローズアップされているところがある。この辺り、ちくま文庫オリジナル編集というこの短篇集、緻密に短篇の並び順まで考えた趣きがある。 (2008 12/01) リリーの全部が靴のなかにあるような気がした。おれの愛情とか欲望は蜻蛉のなかにあった。 (P128) ヴァージニア・ウルフの短篇の中でよく取り上げられ、「20世紀イギリス短篇集」(岩波文庫)にも収録されている作品である「キュー植物園」より。昨日も取り上げた外在化の一例。 ひとつのことが一度為されてしまえば、誰もそれがどのように為されたかを知ることはもうないのだ。(P159) こちらは「壁のしみ」より。この文などは時間の線形性を言っているような気もするのだが、「池の魅力」という別の短篇では、様々な時点の過去が一体となって池を構成している、そこには線形性時間に対する異議申し立てが感じられる。「知ることはもうない」が確実になにかしらの変化はしている。・・・時間は過去は戻ってこないのではなく、戻ってきてももはやわからないのだ。人間に認識できるのは時間と空間しかない。 ということで、もっとゆっくり読みたかったような気もするけど、ヴァージニア・ウルフ短篇集を読み終えた。この人の文読むたびに「こんな繊細な人は、天寿を全うするなどということはないんだろうなあ」と思うのだが。 内在化と外在化との並列… (2008 12/02)
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直接、自分の中に差し込まれるようなものと 目で触るもの、中に入れるもの入ってはこないもの 文字で書かれたものには少なくともふたつの種類があるような気がする ことばが森のようになっていて、自分で決める前にそこへ入っていく自分 絵を見ているようではなく、映像でもなく、ことば...
直接、自分の中に差し込まれるようなものと 目で触るもの、中に入れるもの入ってはこないもの 文字で書かれたものには少なくともふたつの種類があるような気がする ことばが森のようになっていて、自分で決める前にそこへ入っていく自分 絵を見ているようではなく、映像でもなく、ことばが見える 文字ではなく、ことばが柔らかく突き刺さるような感じ 女の人が書いているってわかりきっているような、まっすぐさ だけど これが男の人だったら・・・と考えるとぞくぞくするところがある 性別って別があるだけのことはあって、染みでて美しくある 詩とか小説とか評論とか、そういったジャンルを超えて 差し込まれるものをたくさん読みたい 久しぶりに本が好き 一昨日みたモネは、そういう意味では文字のようだったかもしれない
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すごい、と思った。好きかどうかと聞かれると困る。ただ、自分はだいぶすれてしまったんだなあとぼんやりと感じる。
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「ラピンとラピノヴァ」が異様に大好きなので、再読のために買いました。他の作品もいいのだけど、全然覚えてなかったぜ。電車の中で読むにはたいへんな集中力を必要とするので、寝る前に一編づつ。ちょうどいい長さ、ちょうどよく幻想的。でも意外と現実。
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