闊歩する漱石 の商品レビュー
▼実は漱石はある意味、小沢健二さんに似ている部分もあります。どういうことかというと、創作家である以前に、実は文学の研究家だった。それも19世紀から20世紀初頭の欧州の文学を嘗めるように研究しつくした上に、そもそも漢文漢籍も読める教養もありました。だから実は、漱石の小説にはある意味...
▼実は漱石はある意味、小沢健二さんに似ている部分もあります。どういうことかというと、創作家である以前に、実は文学の研究家だった。それも19世紀から20世紀初頭の欧州の文学を嘗めるように研究しつくした上に、そもそも漢文漢籍も読める教養もありました。だから実は、漱石の小説にはある意味「元ネタ」が隠されている部分が多い(そうです)。小説としての技法や、小説として現実世界を描写する姿勢みたいなものまで含めて。 ▼「闊歩する漱石」丸谷才一。1998~2000の間に雑誌に載せた、丸谷さんの文芸論をまとめた一冊。2000年講談社。2019年読了。 ▼もうだいぶ失念していますが、漱石の個別の小説についてマニアックに語る、という「漱石オタク本」ではありません。漱石の小説を入り口に、19世紀から20世紀の小説について語る、みたいな一冊でした(と、思います)。やっぱり、丸谷さん専攻はジョイスですから。 ▼個人的には19世紀の文学って結構好きなんですが、「19世紀の文学は、色んな意味でビッグバンで、進取の気性に富む反面、それまでの伝統と訣別し過ぎたのでは」という指摘が記憶に残っています。「一方で20世紀の文学は、カフカとかジョイスとか、よりぶっ飛んだ方向に行くように見えて、実は19世紀文学への反論として、モダニズムの裏側に古典へのリスペクトもある」みたいなことだったような。 ▼丸谷さんは物故されているのですが、電子書籍でも旧仮名遣いで読める数少ない作家さん。理屈抜きで、好きなんです。旧字旧仮名。
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夏目漱石の『坊っちゃん』『三四郎』『吾輩は猫である』を独自の視点で紐解く一冊。 他作家の作品の引用や、文学史の話になると知らないことだらけで、これをすべて勉強するには時間が足りないと焦る気持ちになる。 でも何も硬くなることはない。縛られずに自分で想像してみることの楽しさを教えられた。 本は自由を与えてくれる存在なのだ。
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この案内で、蘊蓄ふうに書いている内容のほとんどは、独創ではないことを吉本隆明の案内で書いた。 たとえば、「三四郎」を「都市小説」、あるいは、新しい社会との「出会い小説」として読んで案内しているのは、丸谷才一の評論集「闊歩する漱石」(講談社文庫)の中に「三四郎と東京と富士山」というエッセイがあって、それに教えられていることは明らかだ。 手元に2000年の初版がある。出版されたときに読んだことは間違いない。それ以来、高校生相手のおしゃべりの場面においても、「案内」のような内容をしゃべってきたことを、今、思いかえしている。もっとも、もう20年近く昔の読書だから、確たる記憶があるというわけではない。その結果、ぼくがそう考えているということになってきたのだろう。 こう書くと、人間の言葉を口真似する鸚鵡や九官鳥のように、永遠に意味にはたどり着けないようだがそうだろうか。 口真似を続けた結果、口から出てくる言葉の意味を分かっていると思い込む鸚鵡を想像すると異様だが、人間にとっての様々な解釈や理解は、基本、そういうプロセスのものではないだろうか。 独創とかにたどり着くのは生半可なことではないし、知っていると思っていることでも、本当は、どこでどう知ったかということが処世のモラルとしても大切だと思うのだが、最近は、それを忘れ始めていることに気づくことが多い。 特に、丸谷才一のような学識の広さと深さが超絶していて、おしゃべりな人から受け取った知識や納得は、時には立ち戻ることがないと、自分自身の空回りに気づかない、ただの鸚鵡ということになってしまうので要注意ということだ。 今回、案内をもくろんでいる、「闊歩する漱石」には、ほかに「忘れられない小説のために」、「あの有名な名前のない猫」という二つのエッセイが収められているが、それぞれ、漱石の「坊ちゃん」と「吾輩は猫である」という小説を主題にしながら、丸谷一流の博覧強記がさく裂していて、痛快、かつ、超ペダンティックな文学論だ。 面白いこと限りなしなのだが、「坊ちゃん」を俎上に挙げて、あざやかに料理して見せる丸谷は、あらゆる食材を知り尽くした、フランス料理の腕利きシェフの趣だ。 「あだ名の効用」に始まって、「もの尽くし」、「擬英雄譚的乱闘」、「典型としての人物描写」と料理の種類も多彩な中、しょっぱな、「綽名文学」の代表として、ラブレーの「ガルガンチュア物語」を持ってきたところで、バフチンを思い出す人がいれば拍手したいところだが、「源氏物語」へすすみ、「平家物語」、「千夜一夜物語」と話を広げ、次にやってくる「流謫の文学」の皿には、小樽の啄木、隠岐の小野篁まで、彩も鮮やかに添えられている。 最初のメイン・ディッシュにはイギリス18世紀のの大河小説、フィールディングの「トムジョーンズ」が筋、解説付きで差し出される。もちろん漱石がこの作品を読んだことが間違いないことに加えて、創作のインスピレーションを得たに違いないという、丸谷の独創的見解がソースとなってかかっている。 今、こうして案内している丸谷のコース料理の現在位置は、ほんのとっかかりに過ぎない。あとはテーブルについて、味わっていただくほかはないが、最後のデザートで、「坊ちゃん」というテーブルで、ジョイス、プルーストへ続く、反19世紀小説、モダニズム文学へのコースを、堪能したことに気づくという趣向になっている。 さしずめ、「カーニバル論」のミハイル・バフチン、「もの尽くし論」のジャクリーヌ・ピジョーが、この料理の味の決め手、抜群の切れ味の包丁だが、「闊歩する漱石」の一つ目のテーブルに過ぎない。 残りの二つのテーブルも、様々なソースが用意されていて、素人グルメには蘊蓄の山なのだが、そこはそれ、あのナイフが、とか、あの食材がと、料理人の後を追いかけたくなるのは、ミーハーの常。 図書館とか、本屋さんとか、あれこれ忙しいことになる。それもまた、鸚鵡の口真似から人間の口真似への進化のプロセスなのかもしれない。 まあ、しかし、丸谷才一の場合、料理の口当たりは抜群なのだが、口真似をするのは、少々、忙しすぎるし、骨が折れる。(S)
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20世紀文学は19世紀文学への反抗。 漱石がモダニストだという説は容易に受け入れられなかった。 明治国家とか帝国大学とか博士号とか一切の鬱陶しいものから脱出したいという欲求は漱石においてははなはだしかった。
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恥ずかしいことに三四郎は未読なのです(汗) 発想の仕方も文章もしゃれっ気も、まさに知的とはこの事って感じ。
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