黙想と祈りの手引き の商品レビュー

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2019/07/07

青年向けのキリスト教集会で行われた、祈りと黙想についての著者の講演録。本屋で物色していてたまたま見つけたものだが、当たりだった。キリスト教やキリスト教系思想家の書物を読むと、自分の中に固定化されていた価値観の転倒に出くわすことが多い。西洋思想は元々キリスト教に根ざしているとは一般...

青年向けのキリスト教集会で行われた、祈りと黙想についての著者の講演録。本屋で物色していてたまたま見つけたものだが、当たりだった。キリスト教やキリスト教系思想家の書物を読むと、自分の中に固定化されていた価値観の転倒に出くわすことが多い。西洋思想は元々キリスト教に根ざしているとは一般的に言われることだが、最近はそうであるならばなぜこれほど世の中で個人主義が是とされているのか分からなくなってきた。それほどキリスト教系の本には、個人がただ個人であることをよしとしない記述、脱個人主義的な記述が多い。自分が自分であるというところに苦しみの源を見ている人には救いとなり得よう。この本は信者向けの講演で話した内容だが、テーマが黙想と祈りということで、多くは1人で取り組める内容となっている。キリスト教に興味のある非信者にも非常に参考になる。 ーーー以下引用ーーー どんなに仲のよい夫婦でも祈るときには別れなさいと書いている。愛する者にも祈る姿は見せない。それはただ愛する者にも見せないで自分ひとりでひそひそ何かを楽しむなどというのとは違うのです。自分にも見せないのです。自分はこんなにも祈りができるようになったとか、自分は何時間も祈れるようになったなどと思うようになると、自分で自分の祈りに満足することを求めるようになります。それこそまことの祈りからはどんどん遠くなるこころです。むしろ、そこから解き放たれよということです。P129 ところで祈りが聴かれなかった時、しばしば諦めるということが起こります。しかし、私たちは諦めることはしません。諦めは「仕方がない」という言葉を生みます。私たちが知っているのは断念です。神の御意志に従うことです。これは諦めとは異なり、ひとつの決断です。服従の決意です。P194 このところの区分の最後の言葉は10節です。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。いいですか。パウロの言葉は「わたしは弱い」ではありません。「わたしは強い」という言葉です。…パウロがここで語っていることも弱さではない。「私の強さ」です。私の強さ、これは恵みによって強くされているということです。…このところを間違えると、実質的には弱さを正当化して弱さの中に座り込んでいるにすぎない場合がある。…自分の弱い傷をなめているようなものです。キリストの恵みの強さに生きていない。…パウロがやはり願ったのは強く生きることなのです。弱くってよいということではない。強く生きることなのです。強く生きるために弱さを誇るほかないのです。P255

Posted byブクログ