世界のなかの日本の哲学 の商品レビュー
近年、世界のさまざまな国で日本の哲学への関心の高まっている。本書はそうした動向を受けて、世界の哲学界において日本の哲学がどのような貢献をおこなうことができるのかを考察した、12編の論文が収められている。 日本の哲学は、日本の文化の特殊性とその世界史的な優越性を声高に主張するもの...
近年、世界のさまざまな国で日本の哲学への関心の高まっている。本書はそうした動向を受けて、世界の哲学界において日本の哲学がどのような貢献をおこなうことができるのかを考察した、12編の論文が収められている。 日本の哲学は、日本の文化の特殊性とその世界史的な優越性を声高に主張するものではない。J・ハイジックの論文「日本の哲学の場所」は、西田幾多郎、田辺元、西谷啓治といった日本の哲学者たちの文章には、日本の伝統的文化の権利を叫ぶところがきわめて少なく、まさにそのことが、彼らの哲学を西洋の哲学者にとって興味深いものにしていると論じられている。著者は、「西洋の学者にとって京都学派の思想家が放つ魅力の一つは、まさに日本の文化で育ったものとして世界の哲学フォーラムに立ち入るという挑戦に取り組んだことである」と述べている。 下村寅太郎の論文は、東洋の伝統的な思想は言語による普遍的な主張として展開されることがなかったことを指摘している。東洋の思惟はけっして言語的表現によって伝えることのできないものではないにも関わらず、言語化への「意欲」が東洋には存在しなかったという。その上で、もし「東洋哲学」が成立するとすれば、従来は言語化されることのなかったその内容を「ロゴス化」しなければならない。そのときにはじめて、東洋哲学は「哲学」になると下村は論じている。 アメリカでは、これまで日本の哲学は国家主義の思想とみなされてきた。有坂陽子はそうした理解の一面性を指摘しながら、現代のオリエンタリズムやポスト・コロニアニズムの観点から日本の哲学を問いなおす試みをおこなっている。またG・パークスは、政治的な観点から京都学派を断罪するアメリカの日本哲学研究に批判的検討を加えて、日本の哲学者たちの議論を「一九九〇年代のアメリカの〈政治的な正さ〉の見地」から批判するのではなく、「一九四〇年代初期における日本」の観点から正しい評価をおこなう必要があると論じている。ただしそれは、日本の学者の戦時中の発言を許すことを意味するのではなく、彼らの発言がなされた政治的・歴史的な背景の複雑さを認識し、それを冷静に吟味することに向かってゆかなければならないという主張が展開されている。
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