欲望へ向けて の商品レビュー
回送先:目黒区立目黒本町図書館 若くして亡くなった村山敏勝のおそらく唯一の単行本であろう(多くの村山の作品は訳書として日本で刊行されている)。 クィアという概念をある意味では注意深く使うその姿勢には、そうきたかと評者を感心させてしまうところがある。というのも、クィアとゲイ/レ...
回送先:目黒区立目黒本町図書館 若くして亡くなった村山敏勝のおそらく唯一の単行本であろう(多くの村山の作品は訳書として日本で刊行されている)。 クィアという概念をある意味では注意深く使うその姿勢には、そうきたかと評者を感心させてしまうところがある。というのも、クィアとゲイ/レズビアンスタディーズの混同が―とりわけ当事者であるゲイ/レズビアンには顕著である(村山が謝辞で「抑圧者」と表現するのはまさにこのごちゃ混ぜを当事者が意識していないということの現われと見るべきであろう)―現状の(日本の)クィア理論では見られるだけに彼の遺言をきちんと理解しておいた方がよいともいえる。 一方で本書は、やもすればやおい的な解釈がまたできてしまう。ちょうど、セジウィックの『クローゼットの認識論』第2章をまさにBLを読んだ人間にはオーソドックな展開となって表面化するあの「きまりの悪さ」が本書でも見ることができる。前半の書評は、書評としてみることができるのだが、後半の理論編においてはそうした書評の延長線と本来見るべき箇所がどうしてもやおい/BLで見られる表象の暴力への批判のトーンと読み替えてしまったりすることができてしまうのだ。そして同時に(おそらく村山にしてみたら心外以外の何者でもないだろうが)、ひとつのやおいの世界である。異性愛者である主人公が「愛した人は同性でしかもアクの強いゲイだった」という設定に見られる己の葛藤がそのままこの本でも読むことができる。ただ注意しなくてはいけないのは、村山が中心でもなければ、「抑圧者」として名を連ねるゲイが中心でもないことだ。中心と周縁の関係が無効化されていることに注意してみよう。 クィアとの対話はおそらくは一部では成功していて、一部では失敗もしている。それは村山が悪いのではない。クィアという安楽椅子に依存しすぎてきたわたしたちセクシュアル・マイノリティに過失があるのである。
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エンパワメントやアイデンティティ・ポリティックスを追求するゲイ・レズビアン批評とは一線を画するクィア批評の可能性を鮮やかに剔抉した好著。公/私、自己/他者などの境界を浸潤し、解体する撹乱の力学としてのクィアをじっくり分析。文学批評篇と理論篇とに大別できる。
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