サルトルの世紀 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
あまた存在する現代思想家のなかでも、「忘れ去られた」感のある巨人がサルトルではないだろうか--。 第二次世界大戦後、実存主義の華々しい主張で、戦後の思想界に血の巨人として君臨したものの、後に登場する構造主義、ポスト構造主義の哲学によって完膚無きまでに否定されたことから「乗り越えられた」思想家として位置づけられてしまったからかも知れない。 そんなサルトルを現代に甦らせようとするのがベルナール=アンリ・レヴィの手による『サルトルの世紀』である。著者は、サルトルの二つの側面に注目する。戦前~戦時下抵抗の中で刷り上げられていく反人間主義・反主体思想を構想する「第一のサルトル」。そしてそのふたつもののうらとおもてとなる戦後の暗澹たる「第二のサルトル」。すなわちあるべき本性を措定し人間改良を模索するその足跡。 サルトルの矛盾とは自分自身の課題であり、その足跡は20世紀の宿題そのものかも知れない。いずれにしても挑戦すべき巨人であり、流行や「乗り越えられた感」で避けるべき思想家ではないだろう。
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フランスの戦後思想の転変」 ヴェルナール・アンリ・レヴィの長大なサルトル論。一世代下からみたサルトル論であるが、ほとんど同時代と言ってもいいほどに、長い時期をともに生きてきた哲学者による論であって、実感がこもっていて読み応えがある。関連資料も細々と集められており、同国人による...
フランスの戦後思想の転変」 ヴェルナール・アンリ・レヴィの長大なサルトル論。一世代下からみたサルトル論であるが、ほとんど同時代と言ってもいいほどに、長い時期をともに生きてきた哲学者による論であって、実感がこもっていて読み応えがある。関連資料も細々と集められており、同国人による議論の立てやすさが際立っている。サルトル後の哲学者や文学者にとって、サルトルは気になる人物でありつづけたのだろう。 サルトルのすごさは、哲学者であり、文学者であり、ジャーナリストであり、文芸批評家であり、政治的な発言者であり、「演劇、シャンソンの歌詞、講演、ラジオ放送、映画」(p.78)などのあらゆる分野に手を出し、しかも「征服すべきすべての戦場を制圧した唯一の人物」(p.82)だということである。しかしそれが同時に弱点にもなる。「あらゆる分野で二番手であるが、一番手となれる分野がない」(同)ということでもある。あまりに高い名誉を獲得した反動でもあるかのように、サルトルは急速に忘れられてゆく。実存主義、古いねということになってしまうのである。 レヴィはサルトルがこの偉業を達成するために二つのモデルが必要であり、しかもこの二つのモデルを克服する必要があったと指摘している。ジィドとベルクソンである。サルトルは文学理論においてジィドを模倣する。「ジィドの現代性、形式における大胆さ、鏡の戯れや入れ子構造への愛好、どの小説作品も〈自己反論〉を含んでいるそのありかた、視点の多様化と多数の焦点設定という技法」(p.135)。サルトルはアメリカの作家から学んだと主張するが、実はこれらのすべてジィドの手法であり、これを採用したとレヴィは考える。 しかしジィドを克服しなければ、サルトルは誕生できない。そのためにサルトルはドス・パソス、ジョイス、セリーヌ、カフカなどを活用する。「自分がサルトルになることを妨げているジィドを追い払うという課題であり、これは息の長い仕事」(p.144)になるだろう。 さらにサルトルはベルクソンを悪魔払いしなければならない。かつては「ベルクソン思想は、まるまる一つの時代の思想、文学、政治史の乗り越え不可能な地平線であった」(p.181)からである。レヴィはサルトルにおける「ベルクソン主義の影響に目を向けなければ、彼の哲学的な冒険を何一つ理解できない」(p.182)とまで極言する。そのために利用されるのがドイツ哲学である。「サルトルの抱いた直観の大部分は、最初はベルクソン的な直観であって、それをサルトルは後にハイデガーやフッサールの様式に基づいて定式化し直した」(p.189)というのが、彼の診断である。 さてこのようにして遺産を悪魔払いしたことで、サルトルがサルトルとして登場するが、レヴィはサルトルの内に二人のサルトルがいると考える。第一のサルトルとは『嘔吐』『存在と無』『ユダヤ人問題』の若いサルトルであり、ペシミストであり、自由であり、共同体というものに反感を抱き、係争の思想家であり、不和の思想家である。これは「悲劇的な」(p.410)思想家であり、全体主義を正面から否定する思想家である。 第二のサルトルは『弁証法的理性批判』に始まる後期のサルトルであり、共同体のうちではじめて自由が実現すると考え、全体主義的な主張を展開するサルトルである。このサルトルは第一のサルトルを正面から否定する。しかしこれは転向のようなものではない。第二のサルトルのうちにつねに第一のサルトルが存在しつづけているからである。サルトルがどれほど否定しようと、「いずれにせよ、このサルトルは確かにいるのだ。永遠に若いまま、真の若さのままに」(p.409)。 レヴィはこの第二のサルトルが、捕虜収容所での共同体体験によって誕生したことを指摘する。これは同時代の多くの人々、ボーヴォワールが、トゥルニエが指摘していることでもある。ヒューマニズムを否定するサルトルが、捕虜収容所から戻ってきたら、ヒューマニストになっていたのである。 レヴィは第二のサルトルが犯した過ちをきびしく評価する。しかしその愚かしいサルトルのうちに、「永遠に若いまま」のサルトルを見る視線は、サルトルへの密かな愛情を示すものだろう。800ページを越える記述のうちに、フランスの戦後思想の転変のありかたも読み取ることのできる楽しい書物となっている。
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17,8の時は生意気盛りで嘔吐自由への道など読んで勃起したものだったまだ192ページしか読んでないけど
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