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学校でこそできることとは、なんだろうか の商品レビュー

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2010/06/07

『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』の巻末広告に載っていた本から、『生きなおす、ことば』のあと、里見さんの『学校でこそできることとは、なんだろうか』と、フレイレ自身が『被抑圧者の教育学』を読み直したという『希望の教育学』を図書館で借りている(どっちも近所の図書館になくて...

『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』の巻末広告に載っていた本から、『生きなおす、ことば』のあと、里見さんの『学校でこそできることとは、なんだろうか』と、フレイレ自身が『被抑圧者の教育学』を読み直したという『希望の教育学』を図書館で借りている(どっちも近所の図書館になくて相貸)。 東京へ行く前に途中まで読んでいたのを、東京から戻って、ゆっくり読み終える。 学校の可能性─個が学ぶ、他者と学ぶ、共同で学ぶ こう小見出しのついたところで、テキストの読みを例にして「一人ひとりの読みをだしあい、「他人の読み」をバネにして、自分の新しい読みをつくりだしていくインタラクション。「それが「教室での読書」の他に代えがたい重要な特質だ。」(p.49)などと書いてある。 「ことば」の能力は「環世界」によって触発される この小見出しの部分には、「人間は言いたい相手があり、言わねばならぬことがあるから言うのであり、聞きたい相手とは聞かねばならぬことがあるから聞くのだと思います。そのための場と無関係に、抽象的に話す力や聞く力、読んだり書いたりする力があるわけではないはずです。」(p.137)とある。 知から未知へ、という学び ここでは、どこでも見かけるありふれた雑草エノコログサを、農耕の発生という文脈において「食う」授業をした例を引いて、こう語られる。「熟知していたものが未知のものに変容するのです。未知から知へ、だけが学びの過程ではなく、「知から未知へ」こそが、学びの本筋なのかもしれません。」(p.188) いろいろと引かれている授業実践が、すごくおもしろかった。ナマでこれを見るのはなかなか難しいやろうから、本になってるものは、そんなんを読んでみたいなーと思った。 ◆授業実践やその付近の本 *仲本正夫『学力への挑戦』労働旬報社、1979 →『新・学力への挑戦―数学で新しい世界と自分が見えてくる』 *若林達也『子どもの読みを開く授業』国土社、1989 *中岡哲郎『科学文明の曲りかど』朝日選書、1979 …「手のことばと頭のことば *日教組・国民教育文化総合研究所、「学びの論理と文化」研究委員会の研究報告書『学びと教えの分裂をどう超えるか』2004年5月*阿部昇『文章吟味力を鍛える』明治図書、2003 *科学的「読み」の授業研究会編『国語科の教科内容をデザインする』学文社、2004 *石井桃子『「話の種」になる種子の話』ごま書房、2002 *善元幸夫『生命の出会い―日本語学級の授業記録』筑摩書房、1989 *善元幸夫『いま、教師は何をすればいいのか』小学館、2002 この本でたびたび出てくるデューイへの言及は、亡くなったi先生を思い出させる。デューイの『学校と社会』や『民主主義と教育』は、学部でも院のときにもi先生のゼミで読んだ本で、今も私の手元にある。十何年かぶりに読みなおしたフレイレみたいに、デューイも十数年ぶりに読んでみるかなあと思う。

Posted byブクログ