世相・競馬 の商品レビュー
この本が最初に手に取った“オダサク”である。 織田作之助と聞くと法善寺横丁、夫婦善哉といかにも大阪でございますというイメージが張り付いていて、世代も時代も離れているが、同郷の私には、近すぎて近寄りがたいものがあった。 が、都合二日くらいで読めてしまった。 なぜこれだけ読み進めるこ...
この本が最初に手に取った“オダサク”である。 織田作之助と聞くと法善寺横丁、夫婦善哉といかにも大阪でございますというイメージが張り付いていて、世代も時代も離れているが、同郷の私には、近すぎて近寄りがたいものがあった。 が、都合二日くらいで読めてしまった。 なぜこれだけ読み進めることができたのか、ぼんやりしている。 大阪の人らは、極端にリアリティを追求する。見栄や外聞などは気取らない。わからないことは「わかりまへん」といえる、そしてそれを「それ、ナンボのもんでっか」と相手にリアリティを突きつける。 東京からUSJへ旅行に行った女子2名が大阪のバーで、たまたま隣に座った紳士から声かけられて話をしていると「ところで君らの住んでいるとこの家賃いくらなん?」と聞かれたという。 初対面で生活の一部を覗こうとする、その質問に面食らったという話を聞いたが、その紳士の気持ちはよくわかる。 織田作之助の作品は、実態を写し取ることに精力が注がれていて、そこに虚飾や惑わしがあまりない。 小説というものには、出来事の裏に理由が用意されているものだが、オダサクの作品には理由に重心があるのではなく、出来事に重きを置いているようにら感じられる。そして、それは現実を直視し、理由を邪推しない唯物的な大阪人の眼差しがそうさせているのであり、それは同郷人である私にとって馴染み深かったから、スラスラと読めてしまったのかもしれない。 「競馬」は佳作である。
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小説に関しては、まるで大阪弁でテンポよく語られていて、ひどく歯切れのいいリズムが印象的であった。 巻末の「大阪論」は、大阪の風土と文学・芸術との関係を論じているが、とかく一般的な印象論になりがちなところを、さまざまな人物の生涯に託して論じた、特筆すべき論考である。
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馬券一枚に人生があるのだと、競馬をしない自分にもつくづく感得できる。その昔、早稲田のACTミニシアターへ行き、隣の古本屋で新潮文庫版を買った。どうでもいいコトが忘れられない織田作。
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やばい。わたし、さいきん、オダサクが好きすぎる。はまりすぎる。彼の文章は、何か、不思議な中毒性がある。その文体、そのストーリー、そのスピード、そのリズム。まっすぐにぐんぐん突き進んでいるかと思うと、急に、ぐにゃっと曲がる。基本的には常に猛スピードで疾走しながらも、時々ひょいと、あ...
やばい。わたし、さいきん、オダサクが好きすぎる。はまりすぎる。彼の文章は、何か、不思議な中毒性がある。その文体、そのストーリー、そのスピード、そのリズム。まっすぐにぐんぐん突き進んでいるかと思うと、急に、ぐにゃっと曲がる。基本的には常に猛スピードで疾走しながらも、時々ひょいと、あれれ?と、「アッ!」 ―と、ずっこけたりして、そしてとにかく、ダメ人間というか何と言うか……そんな人たちが多く、そして、だけれども、いつも読み終わると心がホッと温まる。嬉しくて、にこにこと顔に微笑を浮かべてしまう。その読後感がヤミツキになる。 ひとつ悲しいことがあるとすれば、私が大阪をまったく知らず、地名が出てきてもそのイメージも位置関係も何もわからないことだ。それは織田作文学を味わう上でほとんど致命的な欠陥となってしまうんじゃないだろうかと思う。私は、絶対に、織田作之助の描く話を100%理解することはできないんだ、常に何%かの空白ができてしまうんだ、と思うと、何とも言えず寂しい気持ち。(そして「でも絶対に『関西 ― オダサク巡礼の旅』に行ったるぜえ」という気持ち。)
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