キリスト教思想への招待 の商品レビュー
2章まで。田川さんの書いたもののなかでもとりわけおしゃべりな感じ。まあだいたいおしゃべりだしそこがよいところか。
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まず、田川氏の人柄が伝わる。爽快感。いわゆるキリスト教を紹介するわけではなく、史実としての聖書を解釈するうちに豊かな思想語ってしまっている。ソクラテスが何人もいた時代とは違う今日こういうひとが生きていることがすごい。
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タイトルだけ読むと、キリスト教への入門書のように見えるが、なかなか、そんな生やさしいものではない。著者はクリスチャンを自称しているが、そんじょそこらにいるクリスチャンとはひと味もふた味もちがう。生半可な牧師なら耳をふさぎ、逃げ出してしまいそうな口吻である。なにしろ、カール・マルク...
タイトルだけ読むと、キリスト教への入門書のように見えるが、なかなか、そんな生やさしいものではない。著者はクリスチャンを自称しているが、そんじょそこらにいるクリスチャンとはひと味もふた味もちがう。生半可な牧師なら耳をふさぎ、逃げ出してしまいそうな口吻である。なにしろ、カール・マルクスを読むことを称揚し、神などいない、とはっきり言い切ってしまうのだから。それなのに、なぜ今キリスト教なのか。それは、現代にあっても古びない価値のあるものをキリスト教思想が遺しているからである。 キリスト教にはよく知られた四つのドグマがある。創造論、教会論、救済論、終末論がそれである。本書の四章はそれぞれのドグマに対応して構成されている。よく知られてはいるが、まちがった翻訳や意図的な解釈によって、本来語られているはずの意味とずれてしまって、文字通り「憶説」となってしまっているものも多い。それらを長年の聖書研究の成果を活かして、本来の意味を明らかにし、翻って、その今日的意義を語るという仕掛けだ。知的なミステリを読むようなもので、面白くないわけがない。 第一章「人間は被造物」では、「キリスト教では人間が自然を支配してもいいと思い込んでいる」という誤解を解く。例として挙げられている教科書に載った国粋主義的な日本賛美の文章を見るまでもなく、日本人の多くは、八百万の神を戴き四季に恵まれた日本に住む我々は自然を大事にしている民族で、一神教であるキリスト教を奉じ、自然が人間のためにあると考える西洋人とはちがうといったイデオロギーを多かれ少なかれ信じ込んでいる。しかし、干潟を埋め立て、ダムを造り、大規模な自然破壊をしているのもこの国である。自分に都合の良いイデオロギーを国民に信じ込ませることで、国家的規模で行われる自然破壊をごまかそうとしているのだ、と著者は警告する。 第二章、「やっぱり隣人愛」では、「背教者」と呼ばれ、キリスト教世界では評判の悪いユリアノスを採り上げる。彼はヘレニズム文化に憧れ、キリスト教を憎みながらも、その中の「異邦人」や恵まれない者に対して親切にする精神だけは認め、自分の政策の中に入れようとした。つまり、いちばん嫌っていた相手からも評価された隣人愛の理念こそキリスト教思想の際立ったところだというのだ。病院や失業保険といった現代にも繋がる弱者を保護する制度はこの精神に淵源を持つ。 第三章「彼らは何から救われたのか」が、いちばん面白い。十字架に架かったキリストによって、我々の罪は贖われ、救われたのだ、というのが誰でも知っている救済論のドグマである。しかし、いったい我々は何から救われたのだろうか。結論から言ってしまおう。それは「宗教」からである。聖書に使われた言葉の語義から「贖われる」は「身代金」のことだと著者は言う。 人間は生きている限り、どれだけ注意深くしていても「罪」からは逃れがたい。個々の生き方の問題ではないのだ、とパウロは考えた。宗教者といっても人間である。突きつめたらそう考えたくなる気持ちは分かる。そこで神は、イエスを十字架に架ける(身代金を払う)ことで、その罪を許したのだ、と。しかし、それで彼らは、何から救われたのか。古代宗教の祭儀には金がかかった。犠牲の牛や羊も一頭では足りない。何か頼み事をするたびに何度でも必要になるからだ。ところが、キリスト教を信じれば、無料で、「一回限り」のキリスト・イエスにおける贖いを通して、救われるのである。これが、他の「宗教」を信じることで必要となる物入りからの救済でなくて何であろう。 それだけではない。実はここが肝心なのだが、キリスト教は、ローマ帝国の支配の宗教になる以前は「無神論」と呼ばれていたという。そりゃ、そうだろう。所謂「宗教」というのは、寄進によって成り立っている。「救済が本当にタダであるのなら、我々はほかにいかなる宗教行為も、宗教信心も、必要としない。一切の宗教から解放される」ということになる。現代に生きる日本人のほとんどは無神論者だと思うが、自分や家族が死んだら、ふだんは「葬式仏教」とばかにしている寺や坊主にかなりの金額を包まなければならない。それも一回では終わらないのはご存じの通り。もうそろそろ宗教から解放されたいと思っているの私だけではないだろう。 キリスト教思想というものが、自分とは関係ないところにあるのではなく、現代を生きる毎日の生活と深いところで結びついていることが、よく分かる。特に宗教に興味がなくとも、現代の世界の在り方について疑問を感じている人には肯けることの多い書物である。
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キリスト教思想の中の優れた遺産、それも、単なるものの考え方などではなく、人々の中で生きる力として維持されてきたものを取り出し、それを紹介している。4つの章からなっており、いちおう創造論、教会論、救済論、終末論の順に取り上げられている。 著者は『イエスという男』(三一書房、作品社...
キリスト教思想の中の優れた遺産、それも、単なるものの考え方などではなく、人々の中で生きる力として維持されてきたものを取り出し、それを紹介している。4つの章からなっており、いちおう創造論、教会論、救済論、終末論の順に取り上げられている。 著者は『イエスという男』(三一書房、作品社)で、毒を含んだイエスの発想を誤解し続けてきたキリスト教の伝統に対して鋭い批判を放っている。本書でもたとえば隣人愛を取り上げている第2章の中で、現代のキリスト教が「愛の宗教」という看板の下で侵略に加担し、帝国主義の片棒を担いでいることを、著者は口を極めてののしっている。だがそれでも、キリスト教は二千年に渡って「愛の宗教」という看板を掲げて隣人愛を唱え続けてきた。その長い歴史を通して、少しずつではあるが隣人愛を実践する精神が人々の間に涵養されていったことを、著者は具体例をあげながら論じ、ここにキリスト教の現代にも活かされるべき遺産があるのではないかと述べる。 こうしたキリスト教思想の優れたところを紹介するのが本書のねらいのはずなのだが、それを通り越して著者自身の語りが饒舌だという印象は否めない。著者らしい小気味のよい啖呵を期待する向きにはおもしろい本だろうと思う。
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烏兎の庭 第三部 書評 6.30.09 http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto03/diary/d0906.html#0630
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田川氏の著書は、どんなヤヤコシイ題材でも平易な語り口で書かれていて読みやすいのが特徴のひとつでもあるが、この『キリスト教思想への招待』は、その中でも非常に読みやすく、澱みなく読み進める。 田川氏も「はじめに」で、書いているように・・・ 「もちろん、キリスト教思想の概論なんぞとい...
田川氏の著書は、どんなヤヤコシイ題材でも平易な語り口で書かれていて読みやすいのが特徴のひとつでもあるが、この『キリスト教思想への招待』は、その中でも非常に読みやすく、澱みなく読み進める。 田川氏も「はじめに」で、書いているように・・・ 「もちろん、キリスト教思想の概論なんぞというものは、書くことが出来ない。書けると思う人がいたら、その人はものを知らない、というだけの話である。一般に宗教なるものは、千変万化の百面相、ましてキリスト教のように長く、広い歴史的広がりを持ってきた宗教の場合には、あらゆるものがつまっている。これがキリスト教です。などというものを定めることなぞできない。話を思想に限るとしても、これがキリスト教思想です、などと言って取り出すことはできないのである。その気になれば、何か一つのことをキリスト教の中に見出したら、必ずその反対のことも同じキリスト教の中に見出すことができる、ってなものである。」 その中からキリスト教のドグマに対応する4つの項目、創造論、教会論、救済論、終末論を以って、4つの章に著している。 キリスト教がキリスト教なりに「この世」に残した優れた遺産を拾い上げて紹介する一冊。
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