西田哲学の論理と方法 の商品レビュー
西田幾多郎の前期から中期までの思索の歩みを、厳密な哲学的論理を彫琢する道筋として読み解く試み。カント、フィヒテ、新カント学派、さらに同時代の日本の哲学者たちとの関わりが詳しく論じられている。 井上哲次郎の「現象即実在論」は、現象についての「認識」と実在についての「直観」を、同一...
西田幾多郎の前期から中期までの思索の歩みを、厳密な哲学的論理を彫琢する道筋として読み解く試み。カント、フィヒテ、新カント学派、さらに同時代の日本の哲学者たちとの関わりが詳しく論じられている。 井上哲次郎の「現象即実在論」は、現象についての「認識」と実在についての「直観」を、同一の事態の二つの側面とみなす考え方だった。だが、両者の関係についての省察を欠いていたため、哲学の立場をその中に位置づけることはできなかった。そしてこの問題は、西田幾多郎の『善の研究』においても解明されないまま残されていた。以後の西田の思索は、この問題を解決することに向かって進んでゆくことになる。 『自覚に於ける直観と反省』で西田は、フィヒテおよび新カント学派のH・コーエンからの影響を受けつつそれを乗り越えようと試みる。コーエンは、カント哲学における思惟と感覚との相互作用それ自体が、思惟が純粋にみずからの内から「産出」(Erzeugen)すると考えた。だが西田は、そうしたコーエンの発想に潜む主観主義を批判し、自己関係的・自己創造的な「自覚」の活動を根源に置いた。この活動は「絶対自由の意志」と呼ばれ、フィヒテのいう「事行」(Tathandlung)と重ねて理解されることになる。だがそこでも、絶対自由の意志の活動がどのようにみずからを「自覚」するのかという問題は十分に解明されなかった。 西田は「場所」の思想を構築する中で、やはり新カント学派のリッケルトおよびラスクとの対決をおこない、彼らがカント哲学の所与的内容に十分な考慮を払っていないと批判する。だがそのカントも、主観と客観の対立を前提としており、知ることを作用と捉える立場を脱していない。西田は、そうしたカントの主知主義を越えてこれを包む「場所」の立場に立つ。主観と客観とが相互否定的な仕方でともに成立する「絶対無の場所」から立ち上がってくる論理こそが、彼の考える「哲学的論理」にほかならない。
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立正大学教員。 従来、宗教的あるいは東洋的な側面が強調されてきた西田哲学、それに抗して、哲学としての厳密な論理と徹底的批評主義という方法に光を当てた待望の書。井上哲次郎や田辺元、フィヒテ、新カント派などとの対話と対決を通じて、「純粋経験」から「場所」の論理への歩みを跡づけ、西田哲...
立正大学教員。 従来、宗教的あるいは東洋的な側面が強調されてきた西田哲学、それに抗して、哲学としての厳密な論理と徹底的批評主義という方法に光を当てた待望の書。井上哲次郎や田辺元、フィヒテ、新カント派などとの対話と対決を通じて、「純粋経験」から「場所」の論理への歩みを跡づけ、西田哲学本来の姿を浮き彫りにする。新地平を拓く意欲的思考。
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