原っぱと遊園地 の商品レビュー
再読. すべては形式の中にあるってことにわたしたちは普段なかなか気づけない.形式とか前提とかそういったものを一度疑うということはとても大変なことだと思うけど,少し意識してみたいと思った.と同時に,じぶんの体験だとか感覚をこの建築理論の中ではどう位置づけていったらいいか,そのあたり...
再読. すべては形式の中にあるってことにわたしたちは普段なかなか気づけない.形式とか前提とかそういったものを一度疑うということはとても大変なことだと思うけど,少し意識してみたいと思った.と同時に,じぶんの体験だとか感覚をこの建築理論の中ではどう位置づけていったらいいか,そのあたりがまだわからない.
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「遊園地」のように、あらかじめ使い方が決められている空間ではなく、 「原っぱ」のような、その場所での楽しみ方を発明できるような空間、を設計したいということ。 ただし、ここからが難しいのだが、あらかじめ「原っぱ」を作ろうと思って設計された空間は、「遊園地」の質の空間になるのである...
「遊園地」のように、あらかじめ使い方が決められている空間ではなく、 「原っぱ」のような、その場所での楽しみ方を発明できるような空間、を設計したいということ。 ただし、ここからが難しいのだが、あらかじめ「原っぱ」を作ろうと思って設計された空間は、「遊園地」の質の空間になるのである。 原っぱの質は「行為と空間が対等である」。 青木は、設計において、ある決定ルールを設定するも、その根拠が背後に消え去ってしまったとき、行為と空間が対等になる、としている。 そのため、決定ルールには、人をどう感じさせようという心理的要因を含まず、できる限り幾何学的生成ルールであるべきだという。 非常に示唆に富み発見的な宣誓文である。 他にも、作品発表に合わせて発表された文章が収録されているが、そのどれもが魅力的なキーワードと、新鮮な発見に溢れている。そして大切なことは、文章だけでなく作品も説得力を伴っていることだ。 それは設計段階から、複雑なメタな思考を同時に行いながら、新しい発見を引き起こそうという野心と真摯さにあると思う。
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表紙は青森県立美術館のスケッチ。 うーんイロイロ難しいこと言ってるけどまだ僕にはその域には達していない。 残念ながら。
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[ 内容 ] あらかじめそこで行われることがわかっている建築(遊園地)から、そこで行われることでその中身がつくられていく建築(原っぱ)へ。 潟博物館、ルイ・ヴィトン表参道、青森県立美術館、並びにH、Sなど一連の住宅で、今最も注目されている著者の初めての建築論集。 [ 目次 ] ...
[ 内容 ] あらかじめそこで行われることがわかっている建築(遊園地)から、そこで行われることでその中身がつくられていく建築(原っぱ)へ。 潟博物館、ルイ・ヴィトン表参道、青森県立美術館、並びにH、Sなど一連の住宅で、今最も注目されている著者の初めての建築論集。 [ 目次 ] 1 そこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」と「遊園地」;続・「原っぱ」と「遊園地」 ほか) 2 別々のことをしている人たちが時間と空間を共有する(道から進化する建築;決定ルール、あるいはそのオーバードライブ ほか) 3 生活を不定形で連続なものとしてそのままにとらえる(動線体としての生活;窓としての住宅 動線体の開きかた ほか) 4 既存建物もそういう地形とか敷地のかたちと同じである(建築のアクチュアリティ;近代建築とグリッド ほか) [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
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なぜこれを買ったかというと、五十嵐太郎のガイドブックに書いてあったからであって、もっというと、自分の仕事で気づいたことと、同じことを建築の世界で語っているからであった。 目的のある建築、機能を生活者のために想像し、生活の規定するように作られた建築のその目的を白紙にしたときに、そ...
なぜこれを買ったかというと、五十嵐太郎のガイドブックに書いてあったからであって、もっというと、自分の仕事で気づいたことと、同じことを建築の世界で語っているからであった。 目的のある建築、機能を生活者のために想像し、生活の規定するように作られた建築のその目的を白紙にしたときに、そこを使うユーザーとの関係性がやっと対等になる。 遊園地としての建築と原っぱのような建築、どちらがよいかといえば、 それは人によりけりだろうが、例えば、本当にイベントとして捉えたときには、後者のようなものに新しさを感じる。 しかし、「原っぱ」としての建築はプロモーションするのが難しい。 そこで何が体験出来るか、どうするかは来場者に委ねられる。 そして、ここに入場料が発生する。 とてもシンプルには考えられないが、 しかしながら、「原っぱ」としてのイベントもありえるのではないか。 秘密基地作りのようなイベントを作ることが 今後必要なものではないか。 学校として作られた場所が、 美術館として利用されるとき、 その機能はすべて白紙となる。 その白紙となったところにアーティストが向かい合う。 そこに新しいアートが生まれる。 という感覚はわからなくもないが、 であるならば、そもそも、建築を必要としない世界の中で、 作品を「展示」するという行為はどう説明されるのだろうか?
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言葉は難しい。 しかし理解できる部分だけでも、青木淳の思想には脱帽する。 俺はこの人の考え方、好きだな。
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青森で大注目の青木淳さんの書いた本。 やることが自由な原っぱと 押しつけられた遊園地。 建築が作り手の意図を越えたところで はじめて無臭の空間、地形のような前提条件としての素の空間になるという話だったと思う。 人間の生活は曖昧で切り分けられないものと捉えたっていいんですよね...
青森で大注目の青木淳さんの書いた本。 やることが自由な原っぱと 押しつけられた遊園地。 建築が作り手の意図を越えたところで はじめて無臭の空間、地形のような前提条件としての素の空間になるという話だったと思う。 人間の生活は曖昧で切り分けられないものと捉えたっていいんですよね。 良い意味でのルールづくりに携わっていくことが必要なんだろう。 この本で述べられていることの意味は、きっと、現代の建築家に求められているスタンスを曖昧なままでも、なんとか表現する、ということだったと思う。 建築家は、あまり頑なに、旧来の建築家像に縛られることなく、建築に対する自分のスタンスをつくりだしていくべきだという、思いが感じられた。 つくるから、つくりかえるへなどはその最たる例だろう。
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