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押井守論 の商品レビュー

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2018/10/28

【由来】 ・amazonで押井守関連を検索していて 【期待したもの】 ・ 【要約】 ・ 【ノート】 ・

Posted byブクログ

2009/10/04

押井守の作品を読み解く上で、彼自身の言葉を知っておくことは役に立つ。これを読んだことによって、彼の映画に対する認識を、一段と深めることができた。 彼の映画には、以前から、一つの主題、というか、彼はどの映画にも、根底で問題として問いかけているのは、現実と虚構についての問題である。彼...

押井守の作品を読み解く上で、彼自身の言葉を知っておくことは役に立つ。これを読んだことによって、彼の映画に対する認識を、一段と深めることができた。 彼の映画には、以前から、一つの主題、というか、彼はどの映画にも、根底で問題として問いかけているのは、現実と虚構についての問題である。彼は、その問題意識を核として、肉付けし、作品としてきた。つまり、どの作品もその核の部分は変わらない。 押井自身も、映画で問い掛けているのは、常に同じことだといっている。同じ問題を、手を変え品を変え観衆に示しているだけだと。 今回のイノセンスも、もちろんその核は変わらない。 しかし、今回は、その問題意識をより深め、人間の意識と身体のあり方にまで突き詰めている。 押井の疑問。 人間の身体とは、自分のものなのか?それとも、自分というものを含む入れ物に過ぎないのか。 人間は、自分の体を認識する。その時点で、人は自分の体を客観化し、自分とは違うものとしてみている。ゆえに身体は自分のものではなく、ただの人形なのではないか。 デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という、真理を導き出したが、それは、自我を持つということである。それでは、精神は自分のものとなり得ても、自分の存在は意識し得ても、自分の身体を意識し得るまでには至らない。 押井はいう。意識する身体以前に、意識できない身体。そういうものこそ本当の体、なのではないかと。 人間は、自我を持つ。そして、その時点で、人間は己の身体を失っている。なら、本当の身体とは?自己を客観化し得ない意識にしか存在しない。つまり、人間以外の動物。自己の体を自分のものだと意識せずに動かしている犬や、鳥。それらにしかありえないのではないか。 つまり、人間はもう戻れない。戻ることは自我をなくすことを意味するからだ。 今回の「イノセンス」は、そういた象徴としての、サイボーグ、アンドロイド達の物語である。しかし、彼らは人間なのである。なぜなら、ゴースト(魂)をもっているから。人間を存在たらしめるのが「記憶」でしかないのなら、記憶を持つに至った機械と人間を分かつ障壁はなんなのか?そんなものありはしないのである。 だが、押井は、人間に悲観しているわけはない。身体を持たない我々は、自らを存在足らしめる寄る辺を、そのほかのあらゆる物に求めてよいのだ。と。 今回の「イノセンス」は、押井なりの回答なのである。 と、この本を読んで僕は思った。

Posted byブクログ