「わかる」ことは「かわる」こと の商品レビュー
解剖学者の養老孟司氏と物理学者の佐治晴夫氏が、リベラルアーツについて語るという趣旨の本。教養というものは、ただ知って(分かって)いればいいというものではなく、それを知る(分かる)ことで信念なり行動なりが変化しなければ意味がない、という見解で一致している。これは論理学的にも結構深い...
解剖学者の養老孟司氏と物理学者の佐治晴夫氏が、リベラルアーツについて語るという趣旨の本。教養というものは、ただ知って(分かって)いればいいというものではなく、それを知る(分かる)ことで信念なり行動なりが変化しなければ意味がない、という見解で一致している。これは論理学的にも結構深いテーマで、信念の翻意(belief revision)を表現するための「非単調な」記号論理体系が生まれた1つの背景にもなっているのだが、計算量がハンパないせいかあまり流行らなかったね。こういう推論が「人間なら自然にやっている」のかという問題もよく分からないし。
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養老孟司さんと佐治晴夫さんの対談本。全体としては、養老さんがズバッといいたいことを言いつつ、穏やかな佐治さんが応答する流れで、お二方の性格がよく分かる。 冒頭、部分と全体の話しの中で、フラクタル構造の話しが出てくる。自己相似性を持つ構造の事で、部分と全体の構造が同じ形をしている...
養老孟司さんと佐治晴夫さんの対談本。全体としては、養老さんがズバッといいたいことを言いつつ、穏やかな佐治さんが応答する流れで、お二方の性格がよく分かる。 冒頭、部分と全体の話しの中で、フラクタル構造の話しが出てくる。自己相似性を持つ構造の事で、部分と全体の構造が同じ形をしているくこと。「あっ、これって曼荼羅と同じなんだ」と思った。曼荼羅の中心にいるのは大日如来。これは宇宙の本質であるが、一方で、人間もまた一つの小宇宙である。大日如来が宇宙の真ん中にいるが、自分自身の中にも小宇宙があるという考え方。世界を調和的に考えている曼荼羅は、フラクタル構造なのだと。華厳の考え方にも通じる。一木一草のなかに仏が宿る。われわれのなかに世界がある。世界は自分の中にある。銀河系が全部、自分の中に入っている。自分と世界が同じである。なんだか、この本だったからなのか腑に落ちる。 また、日本語をエントロピーで語った佐治先生の話しも面白い。日本語は表現がとろいとか、イエス・ノーではっきり言わないが、いろいろな状況を一括して表現できるという特徴を持っている。つまり、エントロピーが大きい言語だと。そうか、日本語はエントロピーが大きいんだ。なるほどなと思う。 あと、佐治先生の「空虚」と「虚空」の違いというのも面白い。「空虚」というのは何もないがらんどう。一方で、「虚空」というのはすべてがギッシリ詰まっていて、あるかないかわからない状態。人間は変化量で認識している、つまり微分で認識をしているから変化量のないものは、われわれにとって「ない」ということと同じ。だから、われわれは「空虚」と「虚空」の違いは分からないのだろうと。そうそう、そうだよね。「差」があるからボクたちは認識ができる。その「差」が分からなければ認識もできないということ。宇宙も同じなのかもしれない。 養老先生の話しではこんなことが紹介されていた。先生達の初任者研修で、最初の夏休みに船に乗って2週間くらい日本をまわる研修をする。そこで、25人ずつのグループになって先生たちが発表をするのだけど、すべてのテーマは、「どうやったらクラスのリーダーを育てることができるのか?」。つまり、教育の世界が人間関係だけになってしまっているということ。なるほど、ありがちだ。自分だって、そうなるかもしれない。でも、世界の不思議や神秘について語らなくてどうする。。。人間関係だけではなく、世界との無数の関係だってあるはず。 養老先生の「わたし」論も面白い。ハローワークに行ったら垂れ幕が掛かっていて「自分にあった仕事が見つかるかもしれない」と。これは、「自分がある」ことが大前提になっている。その通りだと思う。確固とした自分がある人なんていない。誰だって「たくさんのわたし」がいる。その「わたし」は、相手との関係性によって変化する。ただ一つの「わたし」なんてありゃしない。「あなた」がいるから「わたし」がいる。関係性というのは、そういうものだろう。 そして、佐治先生の、「わかる」ことは「かわる」こと、という本のタイトルの話し。高校の理科を担当している人たちの研修会に呼ばれて話しをしたとき、ある先生が「今日、佐治先生がお話されたことは全部知っている。ボクはビックバンが起こる前に、どういうゆらぎがあったのか、そのところの数学的な話しが聞きたかった」と聞いてきた。それに対する佐治先生の返答は、「あなたは宇宙の事をよく理解していると思う。でも、宇宙の事を知るということは、宇宙の事をあなたが勉強して知ることによって、あなたの人生がどう変わったかという事を持って”知る”ということだ。あなたは生徒に授業を通して、彼らの人生をどのように変えられるかという事を念頭に置いて地学の講義をしていますか?」と。 つまり、「学ぶ」とか「習う」とかいうのは、自分が「かわる」ことによって、初めて理解するということであり、自分が変わらなかったら何の意味もない。変わらないけど頭に入っているものを”知識”という。佐治先生の言い方であれば、学ぶということは、その中に新しい知識を入れて、それをうまくシステムの中に組み込むことである。言い換えれば、新しいパラダイムをつくるということ。学んで理解すること。それが教育である。 「学ぶということは冒険である」という佐治先生の言葉も素敵だ。他にも、微分で認識して積分で理解する。人の心が分かるということは、「自分」と「あなた」を入替えて考えてみること。
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心に残ったのは、人間関係しか見えていないってとこ。 1日15分 人間が作らなかったものを見る!
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これは簡単に読めるし、内容もとても面白いですv 養老先生と対談されている佐治先生は以前大学に講義にいらっしゃって、生でお話をきかせていただきました。 数学に長けていらっしゃる方でその時のお話はとても面白くも深い話で、その「佐治節」がこの本でも発揮されています。
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