小島鳥水 西洋版画コレクション の商品レビュー
小島烏水(こじま うすい、1873年-1948年、本名小島久太)は讃岐国の没落士族の家に生まれ、横浜商法学校に学び、横浜正金銀行入行後、1919年からの11余年を同校サンフランスコ支店に勤務した人物である。 銀行員として勤める傍ら、1897年に「烏水」の名を得ると『文庫』の記者と...
小島烏水(こじま うすい、1873年-1948年、本名小島久太)は讃岐国の没落士族の家に生まれ、横浜商法学校に学び、横浜正金銀行入行後、1919年からの11余年を同校サンフランスコ支店に勤務した人物である。 銀行員として勤める傍ら、1897年に「烏水」の名を得ると『文庫』の記者として同誌で寄稿や批評をおこない、特に紀行文が好評を得たこともあり、1898年より本格的に各地を旅して特に山岳に傾倒してゆくこととなる。1905年には山岳会の設立に関わり、翌年より刊行された同会機関紙『山岳』では編集を行い、本書内で「烏水は、『自然は平面ではない。立体だ。様々な色彩を持っている』と語っていた。彼は、画家が絵筆を持つように、彫刻家が彫刻刀を持つようにペンを振るい、立体的で色彩に富んだ自然の姿を文章にしていった」と記されているように、芸術的な感性を持つことから大下藤次郎、丸山晩霞、小杉未醒といった画家とも親しく交際した。 美術への見識は、ただ画家と親しいということに留まらず、1911年の大下藤次郎の死後、丸山晩霞の外遊などで統率を失っていた日本水彩画会研究所が大平洋画会に合併されようとしたなかで、小島が1913年の『みづゑ』に「日本水彩画研究所の存亡問題とその独立」を寄稿、水彩画が独立した一科として展示されるべきであると主張し、同年日本水彩画会を発足させたことにも小島の姿勢が伺える。 また、山岳会を通して広重の蒐集家であり浮世絵商である渡辺庄三郎や、尚美社の松木喜八郎を介して浮世絵蒐集家で研究家のジョン・スチュワート・ハッパーと出会ったことで、浮世絵にも興味を持つこととなる。1914年の研究書『浮世絵と風景画』出版後、渡米した小島は、当時すでに浮世絵の名品とされる作品の多くは海外に流出しており、アメリカのほうが日本にいるよりも浮世絵を目にする機会は多いことを利とし蒐集・研究を深めていくこととなる。そのコレクションは『小島烏水翁蒐集浮世絵目録』中に343件の姿を残している。 そして、浮世絵を通じてロサンゼルスの美術館と交際したことで、小島は西洋版画の扉もひらくこととなる。1927年の帰国の際には千点にも及ぶコレクションを伴っていたという。1928年4月には東京朝日新聞社五階の画廊で「小島烏水蒐集 体制創作版画展覧会」がひらかれ、小島が持ち帰った四百余点の版画のうち356点が公開されているが、特にコローとミレーは銅版画の代表作のほぼすべてが網羅されている見事なコレクションであった。同展は日本人が初めて目にする16世紀から20世紀までの西洋版画の歴史を体系的にまとめた展覧会であったという。 このように小島は銀行員であり山岳家であり文筆家であり蒐集家であるというマルチな文化人であった。 本書では、その魅力が丁寧に分析され、当時の時代背景のなかでどのような位置づけにあったかなどが丹念調査されており、小島を知るための必読書といえよう。
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