南無阿弥陀仏 の商品レビュー
京都では身近な浄土真宗を知りたくて読んだが、「南無阿弥陀仏」を軸に法然>親鸞>一編とラディカルに突き詰めていく思想史に惹きつけられた。挿入される3人の文章、問答を見ると、市井の人たちに鍛えられた確かさを実感した。本書が書かれたのは昭和27年にもかかわらず現代にも響く確かな仏教思想...
京都では身近な浄土真宗を知りたくて読んだが、「南無阿弥陀仏」を軸に法然>親鸞>一編とラディカルに突き詰めていく思想史に惹きつけられた。挿入される3人の文章、問答を見ると、市井の人たちに鍛えられた確かさを実感した。本書が書かれたのは昭和27年にもかかわらず現代にも響く確かな仏教思想入門では。
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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1694183559375003677?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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青森県出身の版画家・棟方志功氏と仲の良かった柳宗悦氏の著書ということで読んでみた。 民藝研究的な立場を明確にしたうえで、よく聞くキーワードを解説してくださっているためか、仏教どころか宗教全般、まったく知識のない素人でもなんとなく読み進めることはできる。 どうして「南無阿弥陀仏...
青森県出身の版画家・棟方志功氏と仲の良かった柳宗悦氏の著書ということで読んでみた。 民藝研究的な立場を明確にしたうえで、よく聞くキーワードを解説してくださっているためか、仏教どころか宗教全般、まったく知識のない素人でもなんとなく読み進めることはできる。 どうして「南無阿弥陀仏」がこんなにも広く普及したのか。 理解できたような、理解できていないような。 「不二」の考え方からするとそれでいいような。 南無阿弥陀仏。
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絶対他力の浄土思想を擁護する。常識的な立場からのありがちな疑問の一つ一つに丁寧に熱く答えていく。宗教書の古典を思わせる形式(Q&A的展開)に、これまた宗教書の古典を思わせる格調の高さと熱量の大きさを感じさせる文章がつまっている。
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もしかしたら、現代は何でもかんでも「シンプル=イケてる」と捉えすぎかもしれない。シンプル教に侵されて、思考が深まらなくなってしまった時は、仏教を学ぶと強烈なパンチをくらうことになる。 そしてこの本は、そんな仏教の本質は、易しい言葉と論理展開で、力強く答えてくれる一冊。
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浄土宗について、法然、親鸞、一遍を中心に書く。 ちょっと難しめ。 巻末に収録されている『心偈(こころうた』が素敵。 柳宗悦が晩年にごく短い詩のようなものを書き、それについて説明を加えたもの。
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宗悦論としては、民芸思想と浄土思想の平行関係。 浄土思想に関する論としては、法然から親鸞をへて一遍へと続く道を跡付けたこと。とくに手垢にまみれた民芸の美を発見した柳だからこそ、それまで過小評価されていた一遍の再評価を可能とした。 これに法然の前に叡空を加えてくれていたら、 もっと...
宗悦論としては、民芸思想と浄土思想の平行関係。 浄土思想に関する論としては、法然から親鸞をへて一遍へと続く道を跡付けたこと。とくに手垢にまみれた民芸の美を発見した柳だからこそ、それまで過小評価されていた一遍の再評価を可能とした。 これに法然の前に叡空を加えてくれていたら、 もっとすわりがいいのだが、そこまでは論じられていない。
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柳宗悦が独自の観点から浄土教の思想を解説した本。法然、親鸞と受け継がれた浄土思想は、一遍において到達点を迎えたという見方を提示している。 柳の民芸論では、天才的な美術家によって作り出される作品の「美」と無名の職人の技が生み出す「美」が対比されている。前者は「自力の道」、後者は「...
柳宗悦が独自の観点から浄土教の思想を解説した本。法然、親鸞と受け継がれた浄土思想は、一遍において到達点を迎えたという見方を提示している。 柳の民芸論では、天才的な美術家によって作り出される作品の「美」と無名の職人の技が生み出す「美」が対比されている。前者は「自力の道」、後者は「他力の道」と呼ばれる。言うまでもなく仏教の自力と他力の区別を流用したものだ。本書は、そうした彼の民芸論を理論的に支えた彼の浄土思想の見方がストレートに示されているという点で興味深い。 著者は、法然から親鸞を経た浄土教が、一遍によってもっとも高い宗教的境位にまで到達したと考える。法然は、ひとすじに阿弥陀仏をたのむことを説いた。そこでは、「南無阿弥陀仏」と唱えることで、人は仏に帰入すると考えられているのである。だが、親鸞はこの考えを逆転する。彼は、すべては阿弥陀仏から私たちへの廻向行だと考える。「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、人は仏によって帰入せしめられているのである。 法然の教えは「人から仏へ」であり、親鸞の教えは「仏から人へ」であると言うことができる。ところが一遍は、人と仏が「不二」であることを説いたのである。「名号が名号を聞くなり」と言われるように、「南無阿弥陀仏」の当体になりきって念仏を唱えることが、一遍の考える念仏であった。 柳はおそらく、無名の職人が自然と一つになりきることで美しい民芸品を生み出すときに、職人と自然との「不二」の境地を見ようとしていたのだと思われる。ただし宗教哲学的な観点から本書の主張を検討するならば、人と仏の「不二」を性急に説くあまり、両者の「不一」の側面を十分に尊重していないという批判の余地を残しているように思われる。
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何度も何度も読み返し、いつもいつも思い出す本がある。 もうそれは、言葉に出して考えなくても、 心の片隅に染み付いている存在である。 僕にとってこの本はそういう一冊だ。 ものには作り手の心が表れる。よく言われることだ。 では、特別な教育もなしに最も美しいものを作り出す人々は、 ど...
何度も何度も読み返し、いつもいつも思い出す本がある。 もうそれは、言葉に出して考えなくても、 心の片隅に染み付いている存在である。 僕にとってこの本はそういう一冊だ。 ものには作り手の心が表れる。よく言われることだ。 では、特別な教育もなしに最も美しいものを作り出す人々は、 どんな心をしているのか?その心は、どうやってつくられたのか? それが、柳宗悦と仏教との出会いだったそうだ。 宗教と芸術と科学、それらを隔てる仮の垣根が透けて、 心の働きが持つ力の世界が浮かび上がってくる。
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南無阿弥陀仏に救われた方々。 道後温泉奥のネオン街のまた奥に一遍上人が産まれた寺があるのをご存知でしたか。ちなみに寺真向かいにあるネオン街の一番奥の店は「パブ姉妹」僕はこの店の佇まいに南無阿弥陀仏を感じました。
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