南無阿弥陀仏 の商品レビュー
浄土教、念仏の教えを知るには、必読の書。浄土教入門書にうってつけ。めちゃ面白い。 柳宗悦は、民衆の暮らしの中で受け継がれてきた工芸品(民衆的工芸品)の美を称揚するための「民藝運動」を展開した美術評論家であり宗教哲学者。 美は、美術家に独占されるものではなく、むしろ民衆の中に根...
浄土教、念仏の教えを知るには、必読の書。浄土教入門書にうってつけ。めちゃ面白い。 柳宗悦は、民衆の暮らしの中で受け継がれてきた工芸品(民衆的工芸品)の美を称揚するための「民藝運動」を展開した美術評論家であり宗教哲学者。 美は、美術家に独占されるものではなく、むしろ民衆の中に根付いているものだと考える柳宗悦は、その日本的美の根っこに、「南無阿弥陀仏」を見出します。 仏教は、エリートに独占されるものではなく、民衆の中に根付いていくべきものとして、浄土教の普及を押し進めた法然、親鸞、一遍を、「一者の内面的発展」「一人格の表現」として捉えるのが、本書の最大のポイントです。 つまり、法然、親鸞、一遍を三位一体として捉えて、浄土教の完成への道すじを見ていこうということ。 建物にたとえると… 法然は礎、親鸞は柱、一遍は棟 花にたとえると… 法然は種子、親鸞は花、一遍は果実 …といった具合です。 <民藝と他力門の親和性(P40-44)> 1)ともに凡夫によるもの 2)暮らしの中に沁み込んでいる 3)市井の篤信の人が「妙好人」なら民藝は「妙好品」 4)美醜の境がない 5)自力の天才によいものが作れるなら、いわんや他力の凡夫をや 6)職人たちは偉い芸術家にはなれなくても見事なものを作る 7)心と手による限りない反復 <法然・親鸞・一遍の、進化と深化(P138-139)> 法然上人は、人の側を見つめ 「仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給うと」 親鸞聖人は、仏の側を見つめ、 「たとえ人が仏を念ぜずとも、仏が人を念じ給わぬ時はないと」 一遍上人は、人も仏も未だ分かれぬ場を見つめ 「仏も人もなく、念仏自らの念仏であると」 <親鸞による世界の転倒(P124-125)> 圧巻なのは、P124-125に続く親鸞による世界の転倒。ここを読んで、悪人正機についての理解が一段と深まった。 以下引用 ********* 凡ての他力門の教えは、罪の場から始められる。 (中略) 罪とは「我が罪」ということにほかならぬ。自分の罪以外に考える余地を残さぬ時が、始めて罪なるものがまともに考えられる時なのである。それ故罪の意識は、自分が誰よりも罪深い者だという懺悔を伴うものでなければならぬ。 (中略) いわば「天上天下唯我独尊」を考えつくすところまで来なければならぬ。(中略)「独尊」も「独悪」も、実は同じことを表と裏から見ているに過ぎぬ」 自分こそが罪人の罪人であると気付かせてもらうと、世界の光景は俄然と一転する。自分が無限小に小になのであるから、自分に非ざるものは無限大に大となる。小我と大我とが真向きに触れ合う。自己の無限小とは、もはや自己を残さぬことである。残る何ものもなくなる時こそ、自己の完き捨棄である。この放棄のその刹那は、無限大なるものに当面するその瞬間である。ここで小が大に接し、穢が浄に即する。否定が肯定に直結するのである。 この転換の刹那を、我よりすれば往生という。なぜなら無限小の無限大への投入だからである。仏よりすれば正覚という。なぜなら無限大の無限小の顕現だからである。 ********** 親鸞の罪の意識の深化が、阿弥陀如来の大悲をさらに純化させる。自力の余地などなく、すべては阿弥陀如来によるのである。 <一遍の機法一体(P138-139)> 善も悪も入る余地のないのが他力門です。これを「不二」の世界だと、柳は何度も繰り返します。 「不二」つまり、二元論を超越した世界。 善悪も、生死も、人も仏も、自力も他力も、あらゆる二元論を超越した浄土門の完成形を、一遍に見るのです。 以下引用。 ********* 親鸞聖人は一切の行いを仏の功徳に帰したが、一遍上人は仏も人も共に絶えざる六字の名号自体に究竟の様を見たのである。それ故南無の機(人)と阿弥陀の法(仏)とが二つなのではなく、「機法一体」の思想が強められるに至った。 ********* 一遍上人においては仏と人の境すらない。すべては「南無阿弥陀仏」の六字に包摂され、融け合っていく。念仏が念仏を申すのであり、念仏が念仏を聴くのである。人と仏のユニゾン、それが念仏なのである。 一遍は、この思想を押し進め、「捨聖」として生涯を全うした。 かくして彼の一生は、僧を棄て、寺を棄て、俗を棄て、衣を棄て、食を棄て、身を棄て、心を棄て、一切を独一なる名号に捧げつくした。(P230) ちなみに、柳は、時宗がそこまで広く知られていないのは… ●一遍本人がその著作を自ら焼いてしまった ●時宗の僧侶は遊行僧として寺を持たないため、教学に励む場所がない …としている。 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
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京都では身近な浄土真宗を知りたくて読んだが、「南無阿弥陀仏」を軸に法然>親鸞>一編とラディカルに突き詰めていく思想史に惹きつけられた。挿入される3人の文章、問答を見ると、市井の人たちに鍛えられた確かさを実感した。本書が書かれたのは昭和27年にもかかわらず現代にも響く確かな仏教思想...
京都では身近な浄土真宗を知りたくて読んだが、「南無阿弥陀仏」を軸に法然>親鸞>一編とラディカルに突き詰めていく思想史に惹きつけられた。挿入される3人の文章、問答を見ると、市井の人たちに鍛えられた確かさを実感した。本書が書かれたのは昭和27年にもかかわらず現代にも響く確かな仏教思想入門では。
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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1694183559375003677?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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青森県出身の版画家・棟方志功氏と仲の良かった柳宗悦氏の著書ということで読んでみた。 民藝研究的な立場を明確にしたうえで、よく聞くキーワードを解説してくださっているためか、仏教どころか宗教全般、まったく知識のない素人でもなんとなく読み進めることはできる。 どうして「南無阿弥陀仏...
青森県出身の版画家・棟方志功氏と仲の良かった柳宗悦氏の著書ということで読んでみた。 民藝研究的な立場を明確にしたうえで、よく聞くキーワードを解説してくださっているためか、仏教どころか宗教全般、まったく知識のない素人でもなんとなく読み進めることはできる。 どうして「南無阿弥陀仏」がこんなにも広く普及したのか。 理解できたような、理解できていないような。 「不二」の考え方からするとそれでいいような。 南無阿弥陀仏。
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絶対他力の浄土思想を擁護する。常識的な立場からのありがちな疑問の一つ一つに丁寧に熱く答えていく。宗教書の古典を思わせる形式(Q&A的展開)に、これまた宗教書の古典を思わせる格調の高さと熱量の大きさを感じさせる文章がつまっている。
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もしかしたら、現代は何でもかんでも「シンプル=イケてる」と捉えすぎかもしれない。シンプル教に侵されて、思考が深まらなくなってしまった時は、仏教を学ぶと強烈なパンチをくらうことになる。 そしてこの本は、そんな仏教の本質は、易しい言葉と論理展開で、力強く答えてくれる一冊。
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浄土宗について、法然、親鸞、一遍を中心に書く。 ちょっと難しめ。 巻末に収録されている『心偈(こころうた』が素敵。 柳宗悦が晩年にごく短い詩のようなものを書き、それについて説明を加えたもの。
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宗悦論としては、民芸思想と浄土思想の平行関係。 浄土思想に関する論としては、法然から親鸞をへて一遍へと続く道を跡付けたこと。とくに手垢にまみれた民芸の美を発見した柳だからこそ、それまで過小評価されていた一遍の再評価を可能とした。 これに法然の前に叡空を加えてくれていたら、 もっと...
宗悦論としては、民芸思想と浄土思想の平行関係。 浄土思想に関する論としては、法然から親鸞をへて一遍へと続く道を跡付けたこと。とくに手垢にまみれた民芸の美を発見した柳だからこそ、それまで過小評価されていた一遍の再評価を可能とした。 これに法然の前に叡空を加えてくれていたら、 もっとすわりがいいのだが、そこまでは論じられていない。
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柳宗悦が独自の観点から浄土教の思想を解説した本。法然、親鸞と受け継がれた浄土思想は、一遍において到達点を迎えたという見方を提示している。 柳の民芸論では、天才的な美術家によって作り出される作品の「美」と無名の職人の技が生み出す「美」が対比されている。前者は「自力の道」、後者は「...
柳宗悦が独自の観点から浄土教の思想を解説した本。法然、親鸞と受け継がれた浄土思想は、一遍において到達点を迎えたという見方を提示している。 柳の民芸論では、天才的な美術家によって作り出される作品の「美」と無名の職人の技が生み出す「美」が対比されている。前者は「自力の道」、後者は「他力の道」と呼ばれる。言うまでもなく仏教の自力と他力の区別を流用したものだ。本書は、そうした彼の民芸論を理論的に支えた彼の浄土思想の見方がストレートに示されているという点で興味深い。 著者は、法然から親鸞を経た浄土教が、一遍によってもっとも高い宗教的境位にまで到達したと考える。法然は、ひとすじに阿弥陀仏をたのむことを説いた。そこでは、「南無阿弥陀仏」と唱えることで、人は仏に帰入すると考えられているのである。だが、親鸞はこの考えを逆転する。彼は、すべては阿弥陀仏から私たちへの廻向行だと考える。「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、人は仏によって帰入せしめられているのである。 法然の教えは「人から仏へ」であり、親鸞の教えは「仏から人へ」であると言うことができる。ところが一遍は、人と仏が「不二」であることを説いたのである。「名号が名号を聞くなり」と言われるように、「南無阿弥陀仏」の当体になりきって念仏を唱えることが、一遍の考える念仏であった。 柳はおそらく、無名の職人が自然と一つになりきることで美しい民芸品を生み出すときに、職人と自然との「不二」の境地を見ようとしていたのだと思われる。ただし宗教哲学的な観点から本書の主張を検討するならば、人と仏の「不二」を性急に説くあまり、両者の「不一」の側面を十分に尊重していないという批判の余地を残しているように思われる。
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何度も何度も読み返し、いつもいつも思い出す本がある。 もうそれは、言葉に出して考えなくても、 心の片隅に染み付いている存在である。 僕にとってこの本はそういう一冊だ。 ものには作り手の心が表れる。よく言われることだ。 では、特別な教育もなしに最も美しいものを作り出す人々は、 ど...
何度も何度も読み返し、いつもいつも思い出す本がある。 もうそれは、言葉に出して考えなくても、 心の片隅に染み付いている存在である。 僕にとってこの本はそういう一冊だ。 ものには作り手の心が表れる。よく言われることだ。 では、特別な教育もなしに最も美しいものを作り出す人々は、 どんな心をしているのか?その心は、どうやってつくられたのか? それが、柳宗悦と仏教との出会いだったそうだ。 宗教と芸術と科学、それらを隔てる仮の垣根が透けて、 心の働きが持つ力の世界が浮かび上がってくる。
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