カントにおける認識主観の研究 の商品レビュー
カント哲学をめぐるこれまでの議論では、カントの『純粋理性批判』における感性と悟性の相克や、第一批判の理論哲学と第二批判の実践哲学との相克を、どのように乗り越えればよいのかということが大きなテーマとなってきました。 たとえば新カント派では、悟性の優越を前景化することによってカント...
カント哲学をめぐるこれまでの議論では、カントの『純粋理性批判』における感性と悟性の相克や、第一批判の理論哲学と第二批判の実践哲学との相克を、どのように乗り越えればよいのかということが大きなテーマとなってきました。 たとえば新カント派では、悟性の優越を前景化することによってカント哲学の積極的な意義を論じています。他方、ハイデガーのカント書は、『純粋理性批判』の第二版において悟性の優越が前面に打ち出されていることに抗い、時間性についての独自の考えにもとづいて感性論の復権を試みたものだということができます。またフィヒテは、「事行」という概念を用いることで主体的な自我の実践的機能を強調し、彼自身の考える「あるべかりしカント哲学」を描き出しました。さらにハイムゼートやカウルバッハも、実践哲学の優越のもとに理論哲学を包摂しようと試みています。 しかし著者は、こうした感性と悟性ないし理論哲学と実践哲学の統合の試みは、哲学におけるそれぞれの位置づけを厳格な批判を通して明らかにしたカントの意図の正しい理解にもとづくものではないと批判します。そして、独断的な立場からの一元的統合をしりぞけたところに、カントの批判哲学の積極的な意義を見いだそうとします。こうした目論見にもとづいて、著者は前批判期の著作である『形而上学講義』、とくにその「合理的心理学」をめぐる議論についての検討をおこない、そこに見られる自我のとらえかたが、その後の『純粋理性批判』第一版および第二版を通して、どのように変遷していったのかを明らかにしています。 こうしたテーマをあつかうのであれば、カントの考える理性の法廷としての「批判」の意義について検討をおこなうこと必要だと思うのですが、本書ではあまりくわしい議論はおこなわれておらず、あまり著者の解釈が明瞭に理解できなかったように思います。とはいえ、内官と自発性との関係についてのくわしい考察など、いくつかの興味深い議論を含んでおり、おもしろく読むことができました。
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