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構築と解体 の商品レビュー

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2014/09/04

「体系の構築」と「体系の解体」の2部から成る。「体系の構築」では、著者の前著『体系への道』(創文社)の議論を引き継いで、ヘーゲルがその哲学的「体系」を構築するに至るプロセスを、文献学的な観点から論じている。とりわけ注目したいのは、ゲーテの自然科学とヘーゲルの自然哲学を扱った第5章...

「体系の構築」と「体系の解体」の2部から成る。「体系の構築」では、著者の前著『体系への道』(創文社)の議論を引き継いで、ヘーゲルがその哲学的「体系」を構築するに至るプロセスを、文献学的な観点から論じている。とりわけ注目したいのは、ゲーテの自然科学とヘーゲルの自然哲学を扱った第5章・第6章で、ドイツ観念論の共通の問題意識とヘーゲルの独自性が明らかにされている。 一方「体系の解体」では、シェリングやハイデガーの「無底」(Ungrund)に関する思索の検討を通じて、ヘーゲルによって構築された哲学の「体系」にとっての「外部」を問うことが何を意味しているのかが考察される。 まず著者は、ヘーゲルにおける「無」の扱いを簡潔に紹介している。ヘーゲルは、規定されていない否定としての「無」(das Nichts)と、規定された否定としての「非」(das Nicht)を区別する。後者は「Aは非Bである」という無限判断を形成し、「同一と非同一との同一」という弁証法的性格を担う。だが、「無」はそうした性格を持っていない。「絶対的なものの外には何もない」というとき、「絶対的なものの外には無がある」と主張されているのではない。それは単に、絶対的なものにとってはその「外部」がそもそも問題にならないという意味にすぎない。 他方でヘーゲルは、「無」について語ることはもっとも抽象的なものについて語ることだと考える。このとき「存在」と「無」は、たがいに区別されながら、自分とは反対のものの内で消失することになると論じている。しかしこれも、「無」が純粋な存在と同様に、いまだ規定されていないということにすぎない。むろん存在がひとりでに生まれてくるのであれば、それは根底を必要としない。しかし存在の根底は、存在と無の対立を超えて両者を包む第三のものではない。ヘーゲルの体系の「外部」を問うシェリングの試みは、すべてを呑み込んでしまう「空虚な深淵」として批判されなければならない。 これに対してハイデガーは、シェリングの挫折が、まさに「無」の新たな可能性を示していると考える。神が存在するためには、神そのものの根底が必要である。だがその根底は、神の外にではなく、神自身の内に求められなければならない。これが、存在の全体を包み込んだ統一、すなわち「体系」である。だが、このように「体系」がみずからを閉ざして完成するまさにそのことにおいて、根拠づけの試みの挫折としての「無底」が、「体系」の内に走る「亀裂」として露見する。そこにハイデガーは、「体系」から「外部」の道筋が示されていると考えたのである。

Posted byブクログ