待つしかない、か。 の商品レビュー
哲学者の木田元さんと、演出家の竹内敏晴さんの対談。木田さんの専門であるハイデガーとメルロ=ポンティに竹内さんも以前から非常に興味を持っていたとのことで、その二人の哲学者の思想を足がかりにして、さまざまな会話を交わす。 この本を借りたとき、『待つしかない、か。』というタイトル...
哲学者の木田元さんと、演出家の竹内敏晴さんの対談。木田さんの専門であるハイデガーとメルロ=ポンティに竹内さんも以前から非常に興味を持っていたとのことで、その二人の哲学者の思想を足がかりにして、さまざまな会話を交わす。 この本を借りたとき、『待つしかない、か。』というタイトルがなにを意味するのかとても気になった。哲学の本にしてはずいぶんエモーショナルなタイトルに思えたし、『存在と時間』の内容と「待つ」というワードがどうも結び付かなかった。この「待つしかない」というフレーズは本書で幾度か登場するが、その一部を抜粋する。 --- p.75 前期にはすべての存在者の存在の意味は、人間つまり現存在が了解するもの、企投するものと考えていたので、現存在がその意味を変えることができると見られていたのに、後期になると、そうした存在の意味の変化はおのずから生起するもの、むしろその存在の意味が変化することによって現存在のあり方も変えられると見られるようになります。とすれば、現存在としては、もう待つしかないことになる。 --- この引用部分の直前に、以下の記述がある。 --- p.75 近代、つまり人間が主導権を握って築き上げてきた人間中心主義的な世界を乗り越え、それとは違った世界を実現しようとするのに、人間が自分の生き方を変えることによって、つまりやはり人間が主導権を握っておこなうというのは、近代主義を近代主義的なやり方で乗り越えようとする、まったく自己撞着した試みです。 --- 前期のハイデガーは、現存在(≒人間)の在り方によって存在の意味を変えていけると思っていた。しかしその考えは、人間中心主義の世界を人間の力で乗り越えようとする自己撞着(どうちゃく)なものだった。それに気付き、現存在の在り方で存在の意味を、あるいは世界を変えることはできないと思い知ったハイデガーは、存在の意味が自ずから生起し、変わることによって、現存在の在り方も変わるのだというふうに議論を転換させる。これ以降がハイデガーの後期の思想ということになるが、この自己撞着に気付いてしまったことが原因で、『存在と時間』の後半部分を書き進めることができなくなってしまったという。 『存在と時間』が未完の著であることは知っていたし、後半を「書かなかった」のではなく「書けなくなってしまった」のだということも聞いたことがあった。けれどそれがどうしてなのか、この本を読んで初めて少し理解できたような気がした。大学でレポート用紙50枚かそこらの卒論を書いたときでさえ、最終的にこの考察がどこに向かっているのか見失いそうになったり、最初に立てたプロット通りに主張を進めることができなくなったり、議論の破綻に気付いてしまって絶望したり、ということが少なからずあった。わたしの五億倍くらい頭が良くて百億倍くらい哲学の世界に精通したハイデガーであっても、『存在と時間』ほどの壮大な試みをしたら、途中でどうにもこうにもいかなくなってしまうことがあるんだなあと、改めて哲学という学問の手強さに呆然とする思いだった。 木田さんと竹内さんは哲学者と演出家ということで職業が違い、しかも対談当日が初対面。それなのにすぐに打ち解けてこんなに深い議論にまで達することができたのは、年齢が近いということ以上に、お互いに対する揺るぎない尊敬と信頼があったからだろうなあと感じた。お互いにどんどん質問をして、相手の話に耳を傾け、ひとつひとつの対話に感謝する。お二人ともすでにご自身のフィールドにおける第一人者なのに、それでもなお謙虚に理解を深めようとしている姿に胸を打たれた。知の追求ってどうしてこんなに美しいんだろう。どんなテーマでも、どの時代でも、もっと言えば哲学以外の学問でも、今わからないこと、理解できないことを少しでもわかりたいと純粋に願うその好奇心は、本当に尊くて、崇高だ。誰かのためにも社会のためにもならないけど、わたしが本を読んだりいろいろな人と会話したり見たことがない景色を見てみたいと欲したりするのは、そういう崇高さの欠片でもいいから感じられたらと願っているからじゃないだろうか。知の追求の試みの真っ只中に、ちょっとでも身を置きたいからじゃないだろうか。結果的にそこから何かを生み出せれば、何かの役に立てればもっといいのだけれど、今のところ、その手段がわたしにはわからない。
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