芸術の宇宙誌 の商品レビュー
著者によれば、澁澤龍彦ファンには、三つの世代があるそうで、まずその第一は、澁澤と同世代で、サド裁判の頃からその謦咳に接している人々である。次が、少し遅れて『夢の宇宙誌』あたりの澁澤が自分のスタイルを確立した頃に澁澤を発見した世代。最後は、文庫化されてから澁澤を知った世代になる。そ...
著者によれば、澁澤龍彦ファンには、三つの世代があるそうで、まずその第一は、澁澤と同世代で、サド裁判の頃からその謦咳に接している人々である。次が、少し遅れて『夢の宇宙誌』あたりの澁澤が自分のスタイルを確立した頃に澁澤を発見した世代。最後は、文庫化されてから澁澤を知った世代になる。その線引きでいけば、著者と私は、同じ第二世代に属することになる。 どこかで見たことのあるような書名だと思ったが、澁澤の影響を受けているなら『芸術の宇宙誌』という書名も分からぬでもない。谷川渥という名前は、前から気になっていた。着眼点が似ているというか、それほどポピュラーとも思えない話題に目を止めると、谷川渥の名前があることが多かった。第一世代の、たとえばこの本でも対談相手に選ばれている種村季弘や巖谷國士ならよく知っているのだが、第二世代についてはよく知らなかった。同時代に澁澤の影響を被っているなら、眼の止まるところが似ているのは当然といってもいいだろう。 絵画の図像学やランボー、モダニズム、現代芸術、建築と相手の専門に合わせながら自在に展開される対談はなかなかのものだが、読者の興味によって、面白さに濃淡が出るのは仕方があるまい。総じて、突飛な視点や目新しい発見があるわけではない。現代芸術についての講義を聴いているような感じがするのは仕方のないところだろう。 澁澤関係は別として、草間彌生との対談は面白かった。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープの缶を並べた絵は有名だが、あの同じものを隙間なく並べる手法はもともと草間彌生が本家だという。その他、『コーネルの箱』のあのジョセフ・コーネルが草間にぞっこんだったとか、彼がとんでもないマザコンだったとかいう話は、直接接した者だけが知る裏話で、他の対談者が裃をつけた話に終始している中で、さすがに草間彌生の面目躍如たるものがある。 もう一人、精神分析学者の新宮一成との対談も面白い。ラカンの「鏡像段階」について、新宮は、自己同定の論理を持ち出し、「これが私だ」と鏡に向かって言うとき、言っている私と、言われた方にある「何か」に、自己は分裂しているのだという。そう考えることで、これが私だと言っている方の自分が、ある種の絶対的な存在になれるのだと。そうなったら、鏡の向こうの自分は、何にでも変わることができる。同じ顔が映ってはいても「その鏡の背景には何でもいいものが隠れている」。それが楽しいのだと。 何にでも変われるという可塑性を楽しいと捉えるなら、たしかにその通りだろう。しかし、一度分裂をはじめた自己は、鏡の背後で無限に増殖をはじめ、これが私だと言える確固とした自己などないことに思い至らざるを得ない。鏡の背後で常に逃走して止まない自己を追いかけて、ランボオはアフリカに行ったのだろうか。そして、三島は展翅板に永遠の相を留めるために、自分の腹にピンを刺したのだろうか。 自分で拵えた澁澤龍彦像を「澁澤龍彦集成」に閉じ込めるようにして、自決を覚悟していた三島を故国に置き、澁澤はヨーロッパに出かけた。帰国した澁澤は『思考の紋章学』や『胡桃の中の世界』に代表される偏愛のオブジェに由来するエッセイを書く書斎人として、そして最後には、伝奇物語の色濃い小説作者として三度変容してみせる。鏡のメタファーを知りつくした作家ならではの見事なメタモルフォーゼぶりである。 バロックについて、「ドールスのバロック論のひとつのポイントは、一番下に重い建築、次いで彫刻、絵画、詩、音楽と重ねたときに、バロックは上のジャンルに行こうとするということです。すなわち建築が彫刻になろうとする、これはバロックと考えていい。古典主義は逆に下がろうとする。音楽が詩に、すなわち音楽が語ろうとする。絵画が彫刻に、すなわち非常に立体的な三次元的イリュージョンを目指す。彫刻は建築的なものになろうとする。それらは古典主義です。」なるほど、よく分かる。お気に入りの先生から講義を聞いているような気分である。
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