それからの海舟 の商品レビュー
三田薩摩屋敷での勝海舟、西郷隆盛の会談による江戸城無血開城の後の勝海舟を描いた明治の海舟は? 半藤氏の知識と見解は面白い。
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最初にお断りしておかなくてはならないことは、普通歴史解説書というのは公正無私の立場で書かれているのであるが、この著者・半藤一利はちゃきちゃきの江戸っ子故もあり、圧倒的に勝海舟びいきで、薩長嫌いなのである。 「それからの海舟」のそれからとは、当然江戸城無血開城から、それに続く明治...
最初にお断りしておかなくてはならないことは、普通歴史解説書というのは公正無私の立場で書かれているのであるが、この著者・半藤一利はちゃきちゃきの江戸っ子故もあり、圧倒的に勝海舟びいきで、薩長嫌いなのである。 「それからの海舟」のそれからとは、当然江戸城無血開城から、それに続く明治維新のことである。 歴史の教科書からはその辺りで姿を消してしまう勝海舟だが、実はそのあと明治32年まで生きている。 いったい何をしていたのか? 勝先生は幕臣である。江戸幕府が無くなった後もずっと、気持ちの上では幕臣であり、徳川家の安寧と、家臣たちの生活の安定に心を砕いて生きていた。 しかしできる男、勝先生は、明治政府からも声がかかり、声がかかると渋々と腰を上げてはあちこちの調整を図り、物事の基礎を作り、そして適当なところで辞表を出す。 勝先生の明治は、とにかく朝敵とされた徳川慶喜と西郷隆盛の汚名をそそぐためにあったといってもいい。 切れ者ではあるが気が小さく疑り深い徳川慶喜と、思ったことをすぱすぱと口にしてしまう勝先生は、ことのほか相性が悪かったらしい。 それでも最後まで主君慶喜のために勝先生は機を作り、折を見ては、慶喜の大赦を明治新政府にお願いする。 多くの幕臣から見れば勝先生は裏切り者だ。 徹底抗戦をすれば勝っていたかもしれない戦いをせずに、あっさりと大政を奉還させ、江戸城を明け渡す。 そして自分は西軍のやつらとよろしくやっている。 勝先生は、薩長からも、そして味方であるはずの幕府側からも命を狙われていた。 なぜそこまでして、江戸城を明け渡したりなんかしたのか。 まあ、水戸藩出身の慶喜自身が、皇軍に対しては徹底的に恭順の意志を持っていたからというのもあるが、勝先生はそれだけではない。 江戸の町を戦場にしない。 その強い思いがあった。 江戸幕府の海軍奉行であり、明治政府の海軍大輔であった勝先生は、実は非戦主義であった。 坂口安吾の勝先生評。 “兵隊なんぞは無用の長物だ。尤も、それよりも、戦争をしないこと、なくすることに目的をおくべきであろう。海舟という人は内外の学問や現実を考究して、それ以外に政治の目的はない、そして万民を安からしめるのが政治だということを骨身に徹して会得し、身命を賭して実行した人である。近代日本においては最大の、そして図抜けた傑物だ” 江戸の町を、民を守るために、主君を負けさせてしまった勝先生は、自分の行動を間違ったとは思っていないが、それでも慶喜の大赦を願う。 都合のいいときだけ自分を使い、何もないときはあからさまに邪魔者扱いをする明治政府の頼みを、本当は大久保利道や伊藤博文など大嫌いなのに、それでも明治政府の頼みを渋々聞くのは、この、慶喜の大赦という悲願があるからなのである。 そしてもう一人。勝先生と敵味方でありながら、互いに相通じるものを感じていた西郷隆盛との交流。 今でこそ明治維新の英雄の一人に名を連ねているが、西南戦争後の西郷隆盛は、逆賊として、墓を作って弔うことも許されなかったのである。 彼を慕う薩摩人でさえ、政府の意向を怖れて何もできないでいた時に、すぐさま勝先生は西郷隆盛との交流を本にして出版する。 没後2年目に、墓を作り碑を建てる。 没後7年、そろそろ墓を作ってもいい頃合いではないだろうかと薩摩の人たちに言われて、「墓ならあるよ」と。 清濁併せのむ懐の大きさ、思い立ったらすぐの行動力、人情に篤く、合理主義者。 勝先生と西郷隆盛は、似た者同士だったのかもしれない。 “「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹に勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思うようならでは、政令は行われがたし」” 西郷隆盛の弁だが、勝先生も同感であったろう。 明日の日本のために命のやり取りをするような日々を送る先達の後ろからひょいと顔を出し、当たり前のように栄光と財産を享受する政府に対する嫌悪感は、かなりのものだったらしい。 明治天皇が西郷隆盛を信頼するのも相当なもので、彼を失った後は酒量が随分と増え、日常生活にも影響があるほどだったらしい。 西南戦争に勝ち、勢いに乗る政府とは対称的に、日清戦争について語る明治天皇。 “「今度の戦争は『朕の戦争』ではなく『大臣の戦争』である」” 物事の本質をつかみ、大局的にものを見ることができ、思ったことをすぐに行動に移すことも、じっくりと根回しをすることもできるのに、依怙地で、減らず口を叩くことで誤解を招き、誰もやりたがらない難局ばかりにお鉢が回ってくる損な役回り。 それをからからと笑いながら、時に愚痴りながら、最後まで筋を通して生きた勝先生。 これはそんな勝先生について書かれた一冊なのである。 一生ついていきます。勝先生!(男泣き)
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筆者は東京下町生まれで根っからの江戸っ子。 同じ江戸っ子の海舟に心酔して、贔屓の引き倒しとなってることを隠さずに海舟論を展開している。 一方で海舟の心情を斟酌してもなお、海舟批判論に一定の理解をしているあたりは、筆者の歴史家としての見識の高さを感じる。 全体が主に海舟の日記を引用...
筆者は東京下町生まれで根っからの江戸っ子。 同じ江戸っ子の海舟に心酔して、贔屓の引き倒しとなってることを隠さずに海舟論を展開している。 一方で海舟の心情を斟酌してもなお、海舟批判論に一定の理解をしているあたりは、筆者の歴史家としての見識の高さを感じる。 全体が主に海舟の日記を引用して、江戸っ子の語り口調で平易に述べられている。歴史とは立場によって、見える景色が違うということを改めて印象付けられた。
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著者は週刊文春文芸春秋などの編集長をやっていて自負心が高い、かなり癖のある人間で文章の書き方もいやみと紙一重だ。 本自体は、江戸城開場後の勝海舟の生き様を描くが、薩長大嫌いといっている江戸っ子の著者なのでかなり偏見で描かれている。 福沢諭吉の「痩我慢の説」」に対して、海舟の言辞を...
著者は週刊文春文芸春秋などの編集長をやっていて自負心が高い、かなり癖のある人間で文章の書き方もいやみと紙一重だ。 本自体は、江戸城開場後の勝海舟の生き様を描くが、薩長大嫌いといっている江戸っ子の著者なのでかなり偏見で描かれている。 福沢諭吉の「痩我慢の説」」に対して、海舟の言辞を対比させて日本全体と幕府の観点から当然海舟の肩を持っているが本当はどうだろう。 江戸っ子が江戸っ子に惚れて書いた本。 「時鳥 不如帰 遂に蜀魂」と行く気の利いた言葉が氷川清話に書かれているが、いかにも韜晦好みの勝らしい。
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