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山川健次郎伝 の商品レビュー

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2022/12/28

久方ぶりに心が洗われる思いがした。 会津藩の悲劇については、さまざまな著書で熟知していたが、山川健次郎の生涯にスポットを当ててみると、会津戦争のもたらした苦難と悲劇の歴史が一層よく分かる。 この著書では、会津白虎隊に身を置いていた健次郎がその運命を大きく転換させる契機になった人物...

久方ぶりに心が洗われる思いがした。 会津藩の悲劇については、さまざまな著書で熟知していたが、山川健次郎の生涯にスポットを当ててみると、会津戦争のもたらした苦難と悲劇の歴史が一層よく分かる。 この著書では、会津白虎隊に身を置いていた健次郎がその運命を大きく転換させる契機になった人物を知ったことは大きな収穫であった。 秋月悌次郎、奥平謙輔、前原一誠、広沢安任などである。とりわけ長州藩にも会津藩の逸材を救出しようとする奥平のような人物がいたことは余り知られていない。長州藩出身と言えば、木戸孝允や山縣有朋の名が浮かぶが、権力の中枢にいた醜悪な長州閥よりも、反権力の長州人や会津人の方に強く気持ちが傾くのである。 現代においても、いまだ長州閥の流れが権力の中心に見られ、薩長が引いたレールが今日の日本の歴史を形作っている。 私は、孝明天皇の信任を得て、京都守護職に就いた会津藩が朝敵とされ、多くの辛酸を舐める羽目になった大本は、薩長、とりわけ長州の策略であったことは許しがたいことである。 山川は、そうした逆境にめげず、東京大学をはじめ京都大学、九州大学などの総長を勤め、多くの人材を育成した功績は目を見張る。田中館愛橘や、長岡半太郎などを育て、その後の日本物理学の礎を築いたことは、筆舌に尽くし難い快挙である。 この著書は、若い人たちに是非読んで頂きたい好著である。

Posted byブクログ

2012/05/18

 こんなに凄い人物だったんですね。尊敬に値します。今まで殆ど知らなかった山川健次郎と言う人物、とても身近に感じ、影響を受けることができました。  会津戦争は悲しい出来事ですが、その経験がその後の人生に活かせたのは確かだと思います。戦争がない現代、自ら進んで様々な体験をして行かな...

 こんなに凄い人物だったんですね。尊敬に値します。今まで殆ど知らなかった山川健次郎と言う人物、とても身近に感じ、影響を受けることができました。  会津戦争は悲しい出来事ですが、その経験がその後の人生に活かせたのは確かだと思います。戦争がない現代、自ら進んで様々な体験をして行かないと、彼(ら)のような心の境地には達する事はできないなと痛感しました。  本の前半は、健次郎だけでなく会津人に共通する会津戦争の体験が描かれており、奥平の書生時代から、健次郎独自の体験が多くなっていると思います。  彼がもっと政治に関われる立場だったら、悲惨な太平洋戦争は回避できたんじゃないかと思ってしまうくらいです。  あとがきに、健次郎の玉虫一族とのエピソードが載っています。星亮一さん(作者)の「健次郎はそういう人なのだ」と言う一文が、心に残りました。  ありがとうございます。  以下、本書で共感した箇所です。 ☆page.18  会津が恭順する条件は主君容保の死罪、城の明け渡し、領地の没収であった。  尊皇攘夷を掲げ京都の町を荒らしまわっていたが、その理屈たるや日本は神国であり、大砲や軍艦などなくとも大和魂で突っ込めば、外国など怖くはないという子供じみたもので、笑止千万といってよかった。 ☆page.35  なぜ京都守護職の会津が朝敵なのか、どう考えても、それは会津をおとしいれる薩長の陰謀以外にありえないことだった。 ☆page.85  「民の財貨を奪い、婦女子を捕らえて犯し、やることが残虐きわまりない。これは王師にあらず、ゆえに降伏はせぬ」・・・だが戦いに敗れた以上、正論を唱えてみたところで、いかんともしがたいことだった。勝てば官軍、負ければ賊軍だった。 ☆page.210  家訓の第一条は会津藩は幕府に殉ぜよというもので、その心得のない主君は即刻退陣せよと明記されていた。いったん幕府に危急が迫れば、ただちに江戸に向かい、幕府を守ることが、会津藩の使命だった。そのためには武力を磨き、結束して事に当たることであった。 ☆page.219  この時代の学生は大半、士族の出であり、父親が勉強家である点が共通していた。 ☆page.220  人間は周囲の人々の愛情や叱咤激励によって、自分を見つめ、己の人生を築いて行く。教師の仕事はその人間をどう開花させるかであった。二人の弟子たちを見て、健次郎が到達したのは人間教育だった。 ☆page.221  健次郎と愛橘は手塩にかけて半太郎を育てた。この学生こそ後年、母校の理論物理学講座の主任教授を務め、東北帝国大学の設立に尽力し、東北帝大で本多光太郎や石原純を育て、さらに大阪帝国大学の初代総長になり、文化勲章受章者の第一号となる長岡半太郎その人だった。 ☆page.242  物理学科に限らず帝大の学生は皆、国家のために学問をする気迫に満ちていた。 ☆page.245  健次郎は旧主君の松平容保にもしばしば会う機会があった。あるとき、「山川、これを世に出してくれ」といって孝明天皇から授かった信任状、御宸翰(ごしんかん)を竹の筒から取り出した。・・・それは、自分は朝敵にあらずという絶対の証明だった。 ☆page.252  東大創立百二十周年のとき、浜尾実は「いま必要なことは心を見つめなおすこと、相手を大切にすること、集約しれば愛し合い、許し合うことだ」と学生たちに語り、祖父(浜尾新)と健次郎の関係を彷彿とさせたが、二人の友情は終生、変わらぬものがあった。 ☆page.288  天皇も人間である、神格化はよくない。そういう思いがあるからだった。これだけのことを明快にいえたのは、当時健次郎をおいてほかになかった。その後、太平洋戦争の敗戦にいたり、無残にも大日本帝国は崩壊するが、その大きな原因は、錦の御旗に頼る無責任体制に尽きた。 ☆page.307  健次郎はこの時期、ものにつかれたように、積極的に地方での講演活動を行った。・・・講演の内容は「日本の現状」「乃木大将の殉死」「武士の信義」「武士道」「白虎隊の回顧」などで、演壇での健次郎は威厳と風格に満ち、聴衆は健次郎の一言一句に引き付けられ、深い感銘を受けた。 ☆page.316  朝敵の汚名を一掃すべく、旧藩主松平容保の孫娘節子姫の皇室入りを実現させたのも健次郎の離れ業だった。 ☆page.319  「およそ世のなかで戦争ほど悲惨なものはない。親は子を失い、子は親を失う。妻は夫を失い、妹は兄と別れる。会津の戦争でいやというほど見て来た。死者だけではない。手を失い、足を失い、目を失う。世界大戦では千万にのぼる死傷者が出たではないか。これを繰り返してはならぬ」健次郎はそういって昨今の情勢を嘆いた。

Posted byブクログ