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その時歴史が動いた(19) の商品レビュー

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2011/12/01

ペリーが開国をしたというのは歴史で習った事実ですが、太平洋航路であったら20日ですむ旅を、ノーフォークから大西洋を半年もかけてきた(p40)ということを知り、欧州国よりもアメリカにとっては太平洋航路を開くメリットあったことを初めて知りました。 また、昔から不平等条約として有名...

ペリーが開国をしたというのは歴史で習った事実ですが、太平洋航路であったら20日ですむ旅を、ノーフォークから大西洋を半年もかけてきた(p40)ということを知り、欧州国よりもアメリカにとっては太平洋航路を開くメリットあったことを初めて知りました。 また、昔から不平等条約として有名であった日米通商条約にしても、幕府側は、治外法権や関税自主権よりも、開港の場所の制限や外国人の自由な旅行の権利を認めないということに拘った(p103)という点には初めて知ることができました。 江戸末期から明治にかけて一連の事件を4回にわたって掲載したこのシリーズは読み応えがありました。 以下は気になったポイントです。 ニッポン開国(第一部)なぜアメリカだったのか?/ペリーの知られざる外交戦略 ・1848年当時のアメリカはエネルギー資源として鯨油に頼っていたため、捕鯨猟は大産業であり、日本近海での遭難もあった(p31) ・ペリーの前にアメリカが日本に接触して失敗した例(ビットル、1846年)をペリーは研究し、「日本政府には断固たる態度をとる、むやみに乗船を許さない、国書は必ず政府高官に直接手渡す」、「即答での拒絶を避ける、回答には期限を明確に」である(p35、38) ・太平洋航路であったら20日ですむ旅を、ノーフォークから大西洋(ケープタウン、インド洋、シンガポール、マカオ、香港、日本)を半年もかけてきた(p40) ・ペリーによる日本開国は、アメリカ海軍の22の功績のうちの一つ(p51) ・1855年、ぺりーが3年の遠征を終えて帰国したとき、アメリカは南北戦争前夜であり、ペリーの偉業は世間の注目を浴びることはなかった(p58) ニッポン開国(第二部)通商か、亡国か?/日本全権、決死の通商条約締結 ・日本の役人がハリスから譲歩を引き出したポイントとして、1)京都は開かない、2)外国商人の旅行の自由を制限する、であった、その理由は、場所を限って商業を盛んにして幕府の利益を上げる、治安の問題であった(p95) ・アメリカが身を持って、イギリス・フランスの武力による通商要求を阻むと言明した(p100) ・日本側は、当初、不平等条約と思っていなかった、治外法権や関税自主権よりも、開港の場所の制限や外国人の自由な旅行の権利を認めないということに拘った(p103) ・京都が攘夷派の拠点であることを理由に、大坂の開港も反対する、その代わりに「横浜」を開港して、大坂商人から江戸商人へ利益がもたらせるようにした(p110) 外交立国の志、いまだ死なず/榎本武揚、箱館戦争終結の決断 ・榎本はそれまで日本人が殆ど知らなかった国際法が存在することを知った(p118) ・旧幕府艦隊は大阪湾を封鎖、陸上での幕府軍敗退とは裏腹に、海上は榎本率いる旧幕府艦隊が制圧した(p122) ・西郷たち新政府軍を支援していたイギリスから待ったがかかった、イギリス公使パークスは、西郷の部下に「横浜には外国人の居留地があり、その安全を確保せずに戦争を始めることは国際法に違反するので許せない」とした(p126) ・明治元年12月15日に箱館政権誕生を祝う祝典の後、29日には、外国公使達は全会一致で、明治政府のみを日本で唯一の政権とした(p145) 銀行は人びとのために/金融危機を救った渋沢栄一の決断 ・渋沢は、大勢の人のお金を集めてそれを投資するといった銀行の仕組みが、西欧の強さや豊かさに繋がっていると考えた(p171) ・渋沢が作った銀行は、お金を集めて人に投資するという役割以外に、紙幣を発行するという役割(今の日本銀行の役割)も持っていた(p187) ・銀行券の信用がなかったにも拘わらず金との交換を約束したので、人びとは銀行券を使わずにそれを金と交換した(p188) ・渋沢は、政府が行った秩禄処分(秩禄を廃止する代わりに債券を発行)によって士族に支給される債券に目をつけて、条例を改正して、銀行設立ブームとなった(p192) 与謝野晶子「今ぞ目覚めて」/情熱の歌人、女性の自立を宣言

Posted byブクログ