その時歴史が動いた(22) の商品レビュー
今回のシリーズで印象的に残ったのは、田沼意次と高杉晋作でした。 田沼意次については、商人から賄賂を貰っていた悪代官というイメージが強かったのですが、デフレに陥っている経済状態をなんとか改善しようと努力していたと理解できました。後に記録として残っているのは、どうしても田沼氏の後...
今回のシリーズで印象的に残ったのは、田沼意次と高杉晋作でした。 田沼意次については、商人から賄賂を貰っていた悪代官というイメージが強かったのですが、デフレに陥っている経済状態をなんとか改善しようと努力していたと理解できました。後に記録として残っているのは、どうしても田沼氏の後を継いだ松平定信(吉宗の孫)の寛政の改革のためかも知れません。 また、第二次長州征伐に対して50倍もの幕府軍をついに破った高杉晋作のリーダシップは素晴らしいと思いました。 忠臣蔵、父と子の決断/赤穂浪士討ち入りの時」 ・上野介は隠居することになり、刃傷事件の責任を幕府から二度と問われることのない身分となった(p38) ・大石内蔵助は、わずか15歳の息子・主税に討ち入り口上書を持たせた、これは最も信頼できる幹部に持たせるものであった(p53) 改革者か、悪徳老中か?/田沼意次、江戸の経済改革に挑む ・武士と商人の暮らしぶりに差が生じた原因は、武士の収入源は農民からの年貢米であり、武士はその米を金に替えて生活を営んでいた、様々な商品が市場で売買されると、商人は設けられたが、武士の収入源である米は余って値段が下がったため(p72) ・1760年に意次の改革が始まった、特定の商人に営業許可証を発行して、彼らに市場独占を認めた、その見返りに商人から営業税を徴収した(p76) ・意次の改革により、武士の収入源は米以外にもあるようになった、幕府に入る税金も莫大となり財政も潤った(p77) ・意次は、江戸に銀貨「南鐐二朱銀」を発行して、銀貨8枚で金一両と交換する比率を定めて、東西貨幣制度を一元化した(p84) ・江戸や大坂は活気にあふれて町人文化が盛んになったが、譜代・親藩大名は反感を持った(p85) ・幕府が各藩の民から直接金を集めるという法令は、大名の自治を認めた家康公以来の秩序を根底から揺るがすものであった、これらの改革は潰され、80年後の明治維新に蘇った(p101) ロシア女帝が涙した帰国願い/日露交渉の扉を開いた大黒屋光太夫 ・1789年当時、ロシアのイルクーツクには日本語学校があった、日本との貿易を目指していたため(p127) ・1792年大黒屋光太夫ら3人は、嵐による遭難から10年後に日本に戻った、1793年には松前藩の屋敷にて日露交渉が行われ、光太夫は通訳として活躍した(p147) 海を越えた愛、日本を守る/シーボルト、日本開国への秘話 ・当時出島にはオランダ商館長をはじめとして、15人のオランダ人が暮らしていたが、長崎への町への自由な出入りは禁じられていた(p163) ・近年の研究により、ペリーとシーボルトとの手紙が公開され、ペリーの開国に対してシーボルトが大きな影響を与えていた可能性がでてきた(p164) ・ペリー提督は、シーボルトが書いた「Nippon」やシーボルトが持ち出した日本地図の写本も購入していた(p190) ・ペリーはシーボルトの忠告通り、幕府に1年の猶予を与えた(p194) 高杉晋作、50倍の敵を制す必勝戦略/幕末長州、奇跡の逆転劇 ・1864年の禁門の変にて幕府軍2万に対して、長州軍2000で半日の戦いで敗れた、その後、幕府は長州へ大軍勢(15万)を向けた(第一次長州征伐)(p210) ・武士のように格式にこだわらない奇兵隊隊士たちは、近代的な兵器導入と西洋式訓練を抵抗なく受け入れた(p212) ・1866年、徳川家茂は、長州にふたたび15万の大軍勢を送り込んだ(第二次長州征伐)(p214) ・長州を包囲した幕府軍5万の実態は、小倉・熊本・久留米・柳川の寄集め連合軍であった(p219) ・総司令官の小笠原は、家茂の死に対して職務があるという理由で富士山丸で小倉を離脱したため、幕府軍は撤兵した(p241) 2010/09/19作成
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