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上田閑照集(第6巻) の商品レビュー

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2014/09/04

『十牛図を歩む―真の自己への道』(大法輪閣)や、柳田聖山との共著『十牛図―自己の現象学』(筑摩書房、ちくま学芸文庫)などの文章を再編集して収録している。 『十牛図』は、禅の境位の進展を、逃げ出した牛を探し求める牛飼いの姿を描いた10枚の絵で示したものだ。著者はこの『十牛図』を手...

『十牛図を歩む―真の自己への道』(大法輪閣)や、柳田聖山との共著『十牛図―自己の現象学』(筑摩書房、ちくま学芸文庫)などの文章を再編集して収録している。 『十牛図』は、禅の境位の進展を、逃げ出した牛を探し求める牛飼いの姿を描いた10枚の絵で示したものだ。著者はこの『十牛図』を手引きとして、真の自己を探し求める道程についての宗教哲学的考察を展開している。 牛を見失ったことに気づき探し求める「第一尋牛」、牛の足跡を見つける「第二見跡」、牛を見つける「第三見牛」、牛をつかまえて手綱をつける「第四得牛」、牛を飼いならす「第五牧牛」、牛の背に乗って笛を吹きながら家に帰る「第六騎牛帰家」と進んで、ついに家に帰り着き、牛のことは忘れて広やかな天地に自由な一身を得る「第七忘牛存人」に至る。 こうしてようやく本来の自己にたどり着くのだが、そこで獲得されたのは、真の自己になっていない立場から本来の自己として捉えられたものである以上、じつはほんとうの自己ではないといわなければならない。そこで、これまでの道程を否定して、もう一段自己の底へと踏み越えてゆくことが求められることになる。 それが、「第八人牛倶忘」の境位だ。『十牛図』では、人も牛も消えて何も描かれていない空なる円相だけが提示されている。この自己の大死を経て、自己が「自己ならざる自己」としてよみがえり、川の流れとそのほとりの花をつけた木だけが描かれている「第九返本環源」へと至る。あらゆる対立分裂を「絶対無」によって否定し去ることで、人間の立場からの見方を絶して「水は自ずから茫々、花は自ずから紅」という境位が現われることになる。そして最後に、「第十入鄽垂手」、つまり混雑労苦の人間世界に戻って利他行をおこなう境位が示される。 著者は、こうした『十牛図』についての宗教哲学的な解釈を提示した上で、ブーバー、エックハルト、シレジウス、ニーチェといった西洋の思想家たちの立場との比較思想的な考察おこなっている。

Posted byブクログ