自然の現象学 の商品レビュー
メルロ=ポンティの死後に出版された講義ノート『自然』では、カント、シェリング、フッサールらの哲学を新しく読みなおす試みがなされている。本書はそれらの議論を検討することで、晩年のメルロ=ポンティが何を問題としていたのかを浮き彫りにすることをめざしている。 第1章ではメルロ=ポンテ...
メルロ=ポンティの死後に出版された講義ノート『自然』では、カント、シェリング、フッサールらの哲学を新しく読みなおす試みがなされている。本書はそれらの議論を検討することで、晩年のメルロ=ポンティが何を問題としていたのかを浮き彫りにすることをめざしている。 第1章ではメルロ=ポンティの処女作『行動の構造』における「秩序」の階層性についての考察が検討される。メルロ=ポンティは、物理的秩序・生物的秩序・人間的秩序の三段階を区別し、上位の秩序には下位の秩序に還元できないと主張するとともに、上位の秩序が下位の秩序から独立に存在するという発想も拒否し、上位の秩序は下位の秩序に「基づけ」られて成立するという発想を提示した。また『知覚の現象学』では、「身体」による構成に基づいて秩序の成立の解明をめざしていた。 とはいえ、人間的秩序がもっとも高次の秩序とされているという意味で、彼の考えは人間中心主義を脱却するには至っていなかった。晩年のメルロ=ポンティの存在論は、こうした人間中心主義の残滓を清算するという意義をもっている。著者は第2章で、こうしたメルロ=ポンティの新たな思索の方向性が、『自然』におけるカントとシェリングについての言及の内に示されていると論じる。そこでメルロ=ポンティは、人間理性の自己批判という立場を採るカントの人間中心主義を批判し、人間性がそこから生成する「自然」に向けての思索を開始したシェリングを高く評価していた。 ただしメルロ=ポンティは、自然を捉える「直観」についてのシェリングの考えに、全面的に賛同しているわけではない。メルロ=ポンティは、「直観」を主客合一とみなす考えには反対する。彼は遺稿『見えるものと見えないもの』の中で、「厚みをもった触診、あるいは聴診としての直観」という言葉を用いている。彼は、一方の手で他方の手に触れるとき、触れる手と触れられる手は「可逆的」であるという。触れる手と触れられる手は、主客のまったき合一状態にあるのではなく、「肉」(la chaire)の厚みを介して「見えない蝶番の周りを回っている」のである。同じことは見ることについての間主観的体験においても成り立っている。第3章では、晩年のメルロ=ポンティによる、「見えるもの」と「見えないもの」をみずからの両面として生成するような「自然」についての存在論の構想が解説されている。
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