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大衆の反逆 の商品レビュー

3.9

20件のお客様レビュー

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2012/08/06

タイトルから受け取るイメージとは裏腹に大衆というものがいかに無責任で無知であるか、そしてその大衆が今国の中心になってしまっていることの恐ろしさを指摘した書。1930年に書かれた作品なのですが、驚くほど現代そのものだと思った。 権利や自由があらかじめ用意された世代に生まれたわれわ...

タイトルから受け取るイメージとは裏腹に大衆というものがいかに無責任で無知であるか、そしてその大衆が今国の中心になってしまっていることの恐ろしさを指摘した書。1930年に書かれた作品なのですが、驚くほど現代そのものだと思った。 権利や自由があらかじめ用意された世代に生まれたわれわれはそれが空気と同等であるかのように扱い、感謝するということをせず(自然物であるかのような扱い)、義務も遂行せずに、ただひたすらに権利権利を叫びたてる。 現時の特徴は「凡庸な精神が、自己が凡庸であることを承知の上で、大胆にもその凡庸なるものの権利を主張し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある」とオルテガは主張する。 その延長線上に、「サンディカリスムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押し付けるタイプの人間がでてきたのである」 この二点だけとってもオルテガが主張する「大衆」というもののおろかさが分かると思う。 なんだか最近のニュースを見ているととってもうなずける。 更に、現代のほうが前世紀よりも技術も環境も整備されているのに幸福感が少ないのは、「時代は他の時代より上だが、自分自身よりは下だ」と書かれている「時代の高さ」という章に大きくうなずいた。

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2012/02/17

19世紀のヨーロッパが、まさにいまの、21世紀の日本の状況に酷似しているという衝撃。僕たちはこれから、どんな未来を選択してゆけばいいのだろう…。

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2012/01/16

 本書の内容がはじめて発表されたのは1926年、マドリードのある新聞だ。80年以上前に書かれたものであるにもかかわらず、(あるいはそれ故に)これは現在の日本にぴたりと当てはまる分析ではないかと思ってしまう箇所が少なからずあったことに驚きの念を禁じえないとともに、ヨーロッパではじま...

 本書の内容がはじめて発表されたのは1926年、マドリードのある新聞だ。80年以上前に書かれたものであるにもかかわらず、(あるいはそれ故に)これは現在の日本にぴたりと当てはまる分析ではないかと思ってしまう箇所が少なからずあったことに驚きの念を禁じえないとともに、ヨーロッパではじまっていたことが遅れて日本で起こっているのかもしれないとも思った。 (以下引用)   要するにわれわれの時代の高さとはいかなるものだろうか?  現代は、あらゆる時代の絶頂ではないが、しかし、自分があらゆる過去の時代よりも上にあり、知られている限りの頂よりもなお高いところにあると感じている。われわれの時代が自分自身について抱いている感じをまとめるのは容易ではない。つまり、われわれの時代は他のあらゆる時代よりもまさっていると信じながらも、それと同時に自分が新しい時代の始まりだと感じていて、しかもそれが末期の苦悩でないことに自信が持てずにいるのだ。以上をどういうふうに表現したらいいものか?たぶんこんなものになるだろう。すなわち他のあらゆる時代にまさりながら、自分自身には劣っている時代、非常に強いが、それを同時に自分の運命には確信がもていない時代。自分の力を自慢しているが、それと同時にその力におびえている時代。それがわれわれの時代である(p79)

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2011/01/08
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

「現代のヨーロッパは退廃している」 オルテガは、19世紀の科学文明の発達がヨーロッパ社会に「大衆的人間」を生じさせ、自らに義務を課し、社会に対して責任を持って生きていこうとする従来からの「貴族的人間」と対峙する存在であるとした。この、文明の成果をまるで自然環境であるかのように享受し、その外に出ようとせず、自分の殻の中に閉じて生きていこうとする大衆的人間が支配する社会が現代の社会であり、このような社会は退廃している、と彼は痛烈に批判している。 社会に対して責任を持ち、もっとリアルな生を生きるべく社会に参加すべきことを主張している。

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2010/12/16

 大衆が社会的勢力の中枢に躍り出た。少数の限られた人だけの特権が、大衆に侵食されてきている。気付けば周りは匿名で没個性の無知な大衆で溢れかえっているのである。  オルテガは『大衆の反逆』において、現代における大衆の脅威と危機について語った。しかし、現代について語る前に、此処で言う...

 大衆が社会的勢力の中枢に躍り出た。少数の限られた人だけの特権が、大衆に侵食されてきている。気付けば周りは匿名で没個性の無知な大衆で溢れかえっているのである。  オルテガは『大衆の反逆』において、現代における大衆の脅威と危機について語った。しかし、現代について語る前に、此処で言う大衆の定義とその発生の過程についてまず触れておきたい。  まず、大衆とは何なのか。大衆とは漂う波に身を任せ、没個性的であり、匿名性を帯び、無知な非教養人を指す。他人と同じであるという安定感に快楽を覚え、例え知識があったとしても専門化された特定のことだけしか知らない。  そしてまた、それら大衆はどのようにして生産され、また近代において台頭するに至ったのか。オルテガの述べる大衆化のプロセスは三つである。自由主義的デモクラシー、工業化、科学的実験だ。自由主義的デモクラシーは多数決の原理を持ち出し、多数派である大衆の肥大化を促進した。工業化は大量生産・大量消費によるみんなが同じものを所持するフラット化を可能にした。科学的実験は、学問の専門化の進展により、バランスの崩れた専門化傾向を顕著にし、教養人を消し去ってしまった。  さて、現代についてだ。現代は大衆の洪水が起きている。冒頭でも触れた通り、いままでは限られた人の特権だったものが、大衆の波に全て飲み込まれているのである。また、何かについて決める際にも大衆の波が流れる方向に事が運ばれていく。前近代においては限られた人物によって決められていたことが、不特定多数の感情に流されていくのである。  政治的決定における大衆の感情の介入による問題は、大衆が無知なことである。大衆化のプロセスでも述べたように、大衆は科学的実験による学問の専門化の進展により、バランスの崩れた専門家になっているのだ。官僚機構における専門性の優位性は認めるところがあるが、全体を俯瞰して行う政治的決定においては大衆の感情に任せた決定というのは極めて軽率に感じられる。  衆愚の問題は現代日本における大衆民主主義の限界にも重なる。メディアや第一印象に任せ、自らの快楽に沿って選挙を行う日本では、政治の限界は大衆の限界でもある。また、今日の日本においては大衆の従うメディア自身も大衆であるため、自助更正はいよいよ難しいようにも感じるときもある。  大衆の限界、それを乗り越えるにはどうすればいいのか。それこそ語られねばならぬことだ。必要なのは新しい規範なのか、大衆の排除なのか、それとも再生産なのか。私の結論は、大衆の全肯定である。  無知な大衆の選択により、果たして本当に社会は悪くなるのか。私にはどうもそうとは思えないのである。大衆の行動原理が漂う波に身を任せ安楽を貪るだけなのであれば、破綻による脅威が牙を向けば、大衆は自然と目覚めるように思えるのである。  ただ、ひとつ現代において我々にできることと言えば、教養人となることである。大衆とは教養を失い、快楽に生きる存在である。そこから抜け出ることだけが、現代を生きる我々にできることのように思える。社会全体の変革を行うのは容易なことではないのだ。そこでできることといえば、ひとりでも大衆ではなくなることである。快楽に溺れず、考えることができる人間の存在こそ、日本を良き方向に導く。  また、大衆を全肯定することについてだが、過去においては大衆を圧政していた暴君は一部の貴族だった。しかし、現在においては大衆を圧政する暴君が大衆自身となっているため、たとえメディアが機能不全を起こしたとしても、大衆自身の中で自浄作用が生じると考えられるのである。  大衆の時代において大切なことが二つある。一つは考えること、もう一つは待つことである。  一つ目の考えることは、自らを大衆の波に沈まぬようにしてくれる。自己の輪郭を鮮明にし、政治的決定という答えのない問題に対して最善の結果を示せるようになる。  二つ目は即時的な結果ばかりを求め、待っていれば得られたであろう利益を捨てないことだ。今日の日本の政治においても、長期的な視野で行われる政策は大衆に否定され、効果が直ぐさま見えやすいが利益が薄い、もしくは損失が隠されているだけの政策を選ばれることが多いように感じる。大衆が快楽に生きることを悪いとは言わない。私も快楽が好きだからだ。しかし、後の大きな快楽を捨て、刹那的な微々たる快楽を求め過ぎないように務めることは、オルテガの問題視する大衆でも出来るのではないだろうか。  苦痛を伴う教養人となるか、躾のされた大衆となるか。これが私の考える、今日の日本において大衆が目指すべき指針である。

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2010/01/17

 「俺はもう我慢ならねぇ。もう言わなくちゃ気がすまねぇんだよ!」とでもいう感情があって書かれたのかなという気がする一冊。  そういう気がするので、思想書や学術書という意味合いで書いたというよりも、社会にインパクトを与えようという意味合いで書いたのではないかという気がするので、そ...

 「俺はもう我慢ならねぇ。もう言わなくちゃ気がすまねぇんだよ!」とでもいう感情があって書かれたのかなという気がする一冊。  そういう気がするので、思想書や学術書という意味合いで書いたというよりも、社会にインパクトを与えようという意味合いで書いたのではないかという気がするので、その意味で政治的な一冊ではないかと思う。ちなみにだから、おそらく、論理的には問題があるのではないかとも思う一冊。  そのように私は思うので、本書が人々に何かしらの衝撃や印象を与えたとするならば、本書の目論見の一つは成功したという事になるのではないかと思う。(2010年1月17日記)

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2009/10/04

大衆とは ?生まれたときから、「生」は容易で豊かであるという感覚を抱いている。 ⇒根拠のない楽観主義とそのことへの確信、そしてそこからその「当たり前の状況」を実現させることに対して強い要求が生じる。 ?現存の自己を肯定し、同時に自己の道徳や知性も肯定する。 ⇒ゆえに、外部からの...

大衆とは ?生まれたときから、「生」は容易で豊かであるという感覚を抱いている。 ⇒根拠のない楽観主義とそのことへの確信、そしてそこからその「当たり前の状況」を実現させることに対して強い要求が生じる。 ?現存の自己を肯定し、同時に自己の道徳や知性も肯定する。 ⇒ゆえに、外部からの言葉に耳を傾けけず、自分の意見を絶対視する。しまいには他者の存在を考慮すらしなくなる。 ?そればかりか、あらゆることに対して、自己の道徳や知性などを押し付けようとする。 ゆえに現代の大衆は「満足しきったお坊ちゃん」の時代である。 そして恐ろしいことに、その大衆が社会の支配階層となっている。(大衆とはその人物の地位の問題ではなく、その人物自身の問題。ゆえに、一般的にはエリート階層と解されている医者や法律家も「大衆」である。そればかりか、ほとんどの政治家も「大衆」である。) その大衆の支配する社会には、あるべきモラルも価値観も、未来へのビジョンもない。 ------------------------------------- おおざっぱに書いちゃえばこんな感じの内容かと。 19世紀前半〜半ばにかけて書かれた本だけど、現在にも通じるところがある、というか現代のほうがその傾向は強くなってきている? こんな内容の連載をよく当時のスペインの新聞は載せたなぁ。その器量はすごいww

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2009/10/04

思うにオルテガは、近代の生成の過程で必然的に生まれてしまった鬼っ子である「大衆」が、まさしく必然の結果として近代市民国家を破滅の淵に追いやろうとするのを見るに見かねて、本書によってするどい警告を発したのではないか。しかし、大衆がオルテガの定義するとおりの無自覚的に愚昧な存在である...

思うにオルテガは、近代の生成の過程で必然的に生まれてしまった鬼っ子である「大衆」が、まさしく必然の結果として近代市民国家を破滅の淵に追いやろうとするのを見るに見かねて、本書によってするどい警告を発したのではないか。しかし、大衆がオルテガの定義するとおりの無自覚的に愚昧な存在であるがゆえに、その警告は耳に入らず、ナチズムや冷戦をはじめとしたさまざまな「20世紀の愚行」を引き起こしたのだとすれば、オルテガの努力はまさしく皮肉な結果に終わったといえる。 http://d.hatena.ne.jp/hachiro86/20070521#p1

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2009/10/04

欧州の大衆の統計学的考察  歴史は大衆の反乱をなんども経験している いかにナポレオンのように権力のみ持つものは結局民衆の反感を買い ムソリーニのように合理的に大衆が選んだファシスト政権であっても ただ権力の上に胡坐を書くだけではいけない。  ただ オルテガから読み取れる日本は ま...

欧州の大衆の統計学的考察  歴史は大衆の反乱をなんども経験している いかにナポレオンのように権力のみ持つものは結局民衆の反感を買い ムソリーニのように合理的に大衆が選んだファシスト政権であっても ただ権力の上に胡坐を書くだけではいけない。  ただ オルテガから読み取れる日本は まさに悪い意味での世論主義 歴史から見ると恐ろしい状態である。

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2009/10/04

【目的】 【引用】 【感じたこと】 【学んだこと】 選ばれた人間=自分に多くを要求し、困難と義務を背負い込む。

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