詩集 谷川俊太郎 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
声に出して読んだ。 詩は声に出して初めて良さがわかるものだと思っている(最近気付いた)。 その点で言うと、 谷川俊太郎は音読が真骨頂であると思われる。 音律や音韻や語感が心地よく、練りに練っている感じが伝わる。 練る練る練るねーって感じ(このネタ何度目だらうか)。 語用論なところでいうと(まだ60ページほどしか読んでいないが※疲れるんだよね音読)、 彼は言葉によって「虚」を創りだそうとしているような節がある。 ある題材を書こうとする時、 題材そのものを名指すことなく、 その周辺を延々と偏執狂のごとく書き綴っていくことで「虚」を顕現させている。 「そのもの」を名指すことは「そのもの」の死を意味することだと言わんばかりである。 一方で彼は不必要なまでに題材の名を連発する。 これはゲシュタルト崩壊を起こして意味を「虚」へと導こうとしている。 双方手法は真逆だけれど、やろうとしていることは一緒である。 「虚」とは「謎」であり「ブラックホール」であるため、 その引力によって人々の欲望が吸い寄せられ賦活されるのである。 だからして、 彼の詩が広く人口に膾炙しているのは当然の帰結と言える。 ちょっと言い方を変えて内田樹的に言うと、 ラカンが言うところの 「それが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」が 空虚な中心として運動している、といったところかしらん。 ヒッチコック的に言うと「マクガフィン」。 そう考えると、 なんだかこれは「東京的」な気もしてきた。 中央に「皇居」というぽっかりと空いた「虚」があって(虚があるという言い方もすごいな)、 その周りを同心円状に様々な意匠が彩っていくような感じに似ている。 またユダヤ教の「YHVH」のように、 口に出さないことによって神性を獲得する様にも似ている。 「コカコーラレッスン」 言葉の恐ろしさが身にしみるような文章である。 辞書を見れば分かるけれど、 言葉の意味は常に循環参照である。 単独で成立する語は存在せず、 相互補完をしながら成り立っているものだ。 だから、 ある言語を話すということは、 その言語の世界観の中に飲み込まれることを意味する。 これは絶対の法則。 その恐怖のエッセンスが多分に含まれている。 「タラマイカ偽書残闕」 北部ギジン、 タラマイカ族より採集されたらしい、 叙情詩とも箴言ともつかない文章。 「わたし」のという語に内包される重層的な意味合い。 眼、耳、鼻を表す語がみな「傷跡」を含意している点。 比喩と機知に富んだ内容は、 神話的かつ幻想的である。 閑話休題。 「詩は志をいう」言葉(詩経)を白川静の本で目にしたが、 思い返してみると新宿西口に立つ「冬子さん」の詩集に、 同じ言葉が載っていたなぁ。 とぼんやり思った。
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好き。詩に囚われているひとなんだろうなぁ。好きだとか愛してるとかそういった次元ではなく。「祭儀のための覚え書」にはっとさせられる。自分の内の悲しみに溺れていた。それは自惚れとなんら差異ない。あと無の有、有の無って考え出したらキリがない。ことばのマトリョーシカ!(最近こんなのばかり...
好き。詩に囚われているひとなんだろうなぁ。好きだとか愛してるとかそういった次元ではなく。「祭儀のための覚え書」にはっとさせられる。自分の内の悲しみに溺れていた。それは自惚れとなんら差異ない。あと無の有、有の無って考え出したらキリがない。ことばのマトリョーシカ!(最近こんなのばかりだ)
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