脱構築と公共性 の商品レビュー
残念だ。 残念すぎる。 ベンヤミンの「暴力批判論」を読解したデリダの『暴力批判論』を、 積極的に読解しようとした第1章に始まっていて、 正義の成立に、アーレントを導入することで否定神学に突入しがちなアポリアから脱しようとする。 しかし、しかし、だ。 デリダや正義論への誤解に...
残念だ。 残念すぎる。 ベンヤミンの「暴力批判論」を読解したデリダの『暴力批判論』を、 積極的に読解しようとした第1章に始まっていて、 正義の成立に、アーレントを導入することで否定神学に突入しがちなアポリアから脱しようとする。 しかし、しかし、だ。 デリダや正義論への誤解に目をつぶったとして、 アーレントの公表性によって、没利害ができる、というのは安易すぎる。 アーレントが直接的なプログラムを提示しない手法によって、 彼女の言わんとすることが間接的にしか理解できないこともその読みの恣意性を助長している。 また、この論全体に流れている基調は、 著者の同一性への過剰な拒否反応であり、 これがとけもしない迷路を作り出している。 未だ名前はないが、 差異に目を向けつつ、同一性の志向を捨てないポスト‐ポストモダンの思考が必要である。
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デリダやベンヤミン、カントからアーレントなど、脱構築に関する議論、とりわけ法と正義に関するものを参照すること、そこからその間の関係性を読み解く方法を援用することで、今度はアーレントの公共性を読み解いていく。 それは、社会学の話ではあるが、アーレントのいう「政治」が持つ意味を、その...
デリダやベンヤミン、カントからアーレントなど、脱構築に関する議論、とりわけ法と正義に関するものを参照すること、そこからその間の関係性を読み解く方法を援用することで、今度はアーレントの公共性を読み解いていく。 それは、社会学の話ではあるが、アーレントのいう「政治」が持つ意味を、その概念を現代の人も参照するべきではないだろうか。 また脱構築の方法論についてもう少し知識が得られれば、他の事象にたいしても、思考実験ができるはず。
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