ヒューマニズムとテロル の商品レビュー
モーリス・メルロ=ポンティは私にとって一番好きな哲学者なのかもしれないが、『シーニュ』後半に収められていたような政治的発言に関しては、やはり苦手だ。彼が発言した当時のフランスや国際的な政治状況なんてよくわからないし、ついて行けない。メルロ=ポンティのそうした政治的論説と、いつも...
モーリス・メルロ=ポンティは私にとって一番好きな哲学者なのかもしれないが、『シーニュ』後半に収められていたような政治的発言に関しては、やはり苦手だ。彼が発言した当時のフランスや国際的な政治状況なんてよくわからないし、ついて行けない。メルロ=ポンティのそうした政治的論説と、いつもの知覚論、身体論、他者論などの哲学とのあいだには相当の隔たりがあって、つながりが薄く見え、日本の一般読者は当惑してしまう。 本書『ヒューマニズムとテロル』はメルロ=ポンティが徹底的に共産主義をめぐる政治状況を論じたもので、私も後回しにしてきたものだ。 彼が共産主義にずいぶん近づいているなとは感じていたが、ここまで徹底的にソ連共産主義を調査し尽くしていたとは驚きだ。 メルロ=ポンティはのちのサルトルほどのバリバリの共産主義者ではなく、それとちょっと距離を置きながらも、切迫した関心をもっていることについては、既に感じてきた。 「革命」はやはり<暴力>であり、暴力を受ける側にとっては紛れもなく「絶対的な悪」である、と彼は書く。では、暴力とは何か? 「暴力的な者たちに対して暴力を控えること、それはみずからこの者たちの共犯者となることだ。われわれは純粋さと暴力のあいだで選択するのではなく、多様な種類の暴力のあいだで選択するのである。われわれが受肉している限りで、暴力とはわれわれの宿命なのだ。」(P159) これは実に悲しい、絶望的な発言だ。ひたすら平和を願う立場から見れば、あまりにも心苦しい不信の弁だ。そしてメルロ=ポンティは、ガンジーの非暴力をも否定してしまう。 ただし本書のテーマは暴力なのではない。これは共産主義と革命を論じる過程で出てきた一節にすぎない。 本書の最後におまけのように収められた3つの書評の方が、いつものメルロ=ポンティらしいもので、安心した。 とりわけ「キリスト教とルサンチマン」では、シェーラーの本を評しているようでいて、結果的にニーチェに対して冷静な批判を加えていて、面白い。ニーチェの「キリスト教=ルサンチマン」という性急な結論をあっさりと批判してのけている。爽快だ。
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